高架複々線化工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:41 UTC 版)
現在では守口市駅は高架化されているが、1933年12月に蒲生信号所から守口駅までが複々線立体交差化された時点では地上駅で大阪側には踏切も存在した、また完成時期が世界恐慌の真っ最中で新京阪線(現阪急京都線)の待避線・ポイントを撤去して転用したといわれている。 1970年3月に守口(現・守口市)駅 - 新門真(現・門真市)駅間の複々線高架化の認可申請をした段階では守口駅の京都側から高架化される計画で1972年(昭和47年)の高架化工事着工時にも守口市駅の高架化の認可はなされていなかった。しかし守口市が守口市駅の高架化を前提に再開発計画を立てていたため、翌1973年4月11日付けで萱島駅の設計変更と共に高架化が認可された。また高架工事に伴い移設された仮駅舎は1975年の夏にはほぼ完成していたが、仮駅前のバスターミナルへの進入路の借地交渉が纏まらず約1年間使用できなかった。このため高架化工事が約2年間遅延し、守口市駅下り線(大阪行き)の高架化工事の完成をもって土居駅-寝屋川信号所間の複々線高架化は竣工した。 また守口市駅の京都側には車庫への出入庫線のほかに京阪本線の中央部に引き上げ線が設置され淀屋橋駅 - 守口市駅間の普通が折り返しに使用していたが1980年の3月のダイヤ改正で運転区間が萱島駅まで延長されたため引き上げ線は廃止撤去され、同年6月8日に下り線も高架化され、ようやく淀屋橋駅 - 寝屋川信号所間約14kmが連続立体交差化された。その後も付帯工事が続けられ1982年3月に竣工した。
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