高架線の設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)
ヘルマン・ルムシュッテルのレリーフ(左)と、フランツ・バルツァーおよび新永間建築事務所の技術者の集合写真(右) 官設鉄道が新橋から中央停車場までの調査を行うように指名したのは、仙石貢であった。しかし鉄道建設の経験豊富な仙石としても、市街地における長い区間の高架線という日本で前例のないプロジェクトにあたっては容易ではなく、外国人技術者の支援を仰ぐことになった。この当時ヨーロッパの大都市でも、各方面から乗り入れてきた鉄道が頭端式のターミナルを形成しており、各方面への鉄道相互間の連絡方法に苦心し、また折り返しで錯綜する列車により線路容量が限られるという問題を同様に抱えていたが、唯一ドイツ帝国の首都ベルリンのみは、市街地を貫通する高架線と環状線の組み合わせによりこの問題を解決していた。このため、東京の鉄道のモデルもベルリンに求められることになった。 ちょうどこの時期、九州における鉄道網を建設した九州鉄道がドイツから招聘したお雇い外国人としてヘルマン・ルムシュッテルが日本に滞在していた。ルムシュッテルはプロイセン邦有鉄道(プロイセン国鉄)の技術者としてまさにベルリン市街線の高架の建設に携わった人物であった。日本鉄道は市街高架線の調査をルムシュッテルに依頼し、ルムシュッテルは自身が携わったベルリン市街線をモデルに、初めて東京市街高架線の具体的な設計案を描き出した。この設計案では、煉瓦積みのアーチ高架橋を連ねて上野から浜松町付近までの高架線を建設することになっており、また東京市街を一周する環状鉄道、後の山手線の提案も含まれていた。一方の官設鉄道では、他の案件で忙しい仙石貢の代わりにその部下の広川広四郎がルムシュッテルの助言を受けながら検討を進め、実際に建設される高架線につながる原設計案ができあがってきた。 こうした設計案を基に日本鉄道は1893年(明治26年)8月5日付で上野 - 新橋間の高架鉄道敷設の免許を申請した。申請書に添付の設計書によれば、上野 - 新橋間の建設費は中央停車場の建設費を含めて450万円 - 500万円と見積もられ、途中に秋葉原、白壁町(=神田)、中央停車場、幸橋(=新橋)の停車場を設置し、新銭座町(浜松町付近)において官設鉄道線に合流することとされていた。この頃、鉄道敷設法の制定や日清戦争の勃発などで遅れも生じていたが、官設鉄道の側でも1895年(明治28年)12月9日の第7回鉄道会議において中央停車場関連の予算約350万円を諮詢し、第9回帝国議会に予算案が上程されて1896年(明治29年)2月4日の衆議院本会議において議論され、可決成立した。これにより中央停車場計画に初めて予算的な裏付けが与えられることになった。日本鉄道の申請した免許については、この時期に東京市街へ乗り入れようとしていた他の諸鉄道の案件とともに、鉄道会議や市区改正委員会において審議されたが、結局鉄道国有法によって日本鉄道が国有化されるまでに実現へ向けて動き出すことはなかった。民間の鉄道会社にとってこの高架鉄道への投資負担は耐えられるものではなく、日本鉄道の経営陣が替わるうちに建設への熱意を失ってしまったとの見方がされている。 予算の成立を受けて、1896年(明治29年)4月28日に高架線や中央停車場の工事を担当する部署として新永間建築事務所が発足した。これは浜松町付近の旧町名新銭座町(しんせんざちょう、現港区東新橋付近)と東京駅付近の旧町名永楽町(えいらくちょう、現千代田区丸の内一丁目付近)を結ぶことから名づけられたもので、また当時は建築と土木の区別がはっきりしていなかったため建築事務所と名付けられた。後のJR東日本東京工事事務所の前身組織である。また任期を終えて1894年(明治27年)に帰国したルムシュッテルに代わり、高架線建設の技術指導を求めてやはりドイツからフランツ・バルツァーが新たに招聘され、1898年(明治31年)に着任した。 ルムシュッテル在任時に計画された市街高架線のルートは実際に建設されたものにほぼ沿っており、新橋からやや西へカーブを描いて当時まだ残されていた外堀に沿って東京駅へ向かうものであった。これに対してバルツァーは距離を短縮するために汐留の旧新橋駅から直進して東京駅へ向かうルートを提案したが、これは繁華街として発展していた銀座を分断するものであり、現実的にも土地買収費用的にも受け入れられるものではなく、原案通りが採用されることになった。また1891年(明治24年)の濃尾地震で鉄道構造物が被害を受けたこともあり耐震性が懸念された。バルツァーはこのため、鋼製の構造物を採用すべきであると考えていた。鋼製構造物は高価であるが、重い煉瓦構造物は地盤の悪い東京では基礎工事に費用がかかって相殺されるものと考えられた。しかし当時の日本では鋼製構造物はすべて輸入に頼らなければならず資本が国外に流出するのに対して、煉瓦は国内製造業者に発注できるという点や、完成後の保守経費が安いことなどを考慮し、煉瓦製の高架橋を基本とし架道橋の部分のみ桁下の高さを確保するために鋼製構造とされた。結果的にこの高架橋は、関東大震災において大きな被害を受けていない。バルツァーは日本人技術者を指導しながら高架線の設計を行い、バルツァーの帰国後日本人技術者が独自に設計した部分を含めると1904年(明治37年)までかかって設計された。 バルツァーはさらに、東京全体の鉄道網を構想した。ルムシュッテル在任時にすでに東京を一周する環状鉄道の提案は出ていたが、バルツァーはこれに加えて総武鉄道と甲武鉄道を連結して秋葉原で南北の縦貫線と十字に交差させ、その他に双方とも中央停車場へ乗り入れる短絡線を造るという全体構想を描いた。これは1972年(昭和47年)の総武快速線東京駅乗り入れにより、細部は異なるものの結果的にほぼ実現している。
※この「高架線の設計」の解説は、「東京駅の歴史」の解説の一部です。
「高架線の設計」を含む「東京駅の歴史」の記事については、「東京駅の歴史」の概要を参照ください。
- 高架線の設計のページへのリンク