戦後の V2 の利用とは? わかりやすく解説

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戦後の V2 の利用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 13:22 UTC 版)

V2ロケット」の記事における「戦後の V2 の利用」の解説

戦争末期には、V2ロケット技術者たちできるだけ多く獲得するレースが行われた。1945年8月半ばアメリカ軍ペーパークリップ作戦の下で貨車300両分V2部品鹵獲オルガー・N・トフトイ大佐は、ジョージ・パットン大将率い第3軍投降したフォン・ブラウンやドルンベルガー将軍はじめとする126人の主要な設計技術者をアメリカに連れ帰ったニューメキシコ州ホワイトサンズ・ミサイル実験場には215機分燃焼器と180機分推進剤タンク90機分尾翼100機分黒鉛偏流板と200機分ターボポンプ持ち込まれた。当初大半ドイツロケットアメリカで飛行可能な状態で持ち帰られたと考えられたが、実際にはどれも飛行可能ではなくゼネラルエレクトリックGE)社が陸軍工廠V2組み立て発射契約交わした接収されホワイトサンズ持ち込まれV2部品豊富にあったものの、制御装置のような機材逼迫していた。ドイツから接収したジャイロスコープ50台のみで、大半劣悪な状況であったそれぞれのロケットには2台のジャイロスコープが必要で、他にも配電盤多く配線不足していることが判明したため、試射計画後半にはGE社ジャイロスコープ誘導装置製造するとともに経年劣化していたドイツ推進剤配管交換したV252%に変更施されホワイトサンズから発射され71%は設計重量超えた。2,200 lb (1,000 kg)の弾頭を含むV2標準的な空虚重量は8,000 lb (3,600 kg)だったが、発射されロケット空虚重量ペイロード19%増えたことにより9,218 lb (4,181 kg)になり、1951年以降全てのV2改良施され47%以上ペイロード追加されたことで最大全備重量28,400 lb (12,900 kg)になった全ての部品組み立て前に性能と状態が検査され修理調整必要な部品再度試験された。大型部品組み付け前に完全に試験実施され、2回の総合試験組み立て棟を離れる前に実施され射点では総合試験前日実施され発射当日推進剤充填された。 その後数年間、アメリカロケット計画未使用V2ロケット活用して進められた。これらの改良型V2のひとつである2段式の「バンパー」は、1949年2月24日試験飛行当時の高度記録である 400 km達成したV2打ち上げ68%が成功したが、失敗した打ち上げからも多く貴重な情報得られた。1946年から1952年にかけて合計67機のV2ロケットホワイトサンズから発射され多く価値ある情報アメリカもたらしたフォン・ブラウンアメリカ陸軍レッドストーン兵器廠勤務し1950年からはアラバマ州ハンツビル居住。後にレッドストーンジュピタージュピター-Cパーシングそしてサターンなど、ほぼ全てのアメリカロケット生みの親となったアメリカ海軍で接収したV2小型化したヴァイキング開発して後に人工衛星打ち上げ用のヴァンガード発展させた。 ソ連もまた多数V2ロケット250余り技術者捕らえた。元共産党員の妻を持つヘルムート・グレトルップHelmut Gröttrup)がこのグループ率いた。彼らはドイツ国内ロケット研究継続できるという条件ソ連軍協力したが、戦後しばらくの間ドイツ国内ソビエト技術者と共に開発作業従事したが、1946年ソ連突如、彼らをソ連国内孤島隔離収容してV2ロケットをもとに多く新しミサイル開発を行なわせた。セルゲイ・コロリョフチームV2ロケット複製R-1を製作するコロリョフドイツ人教えを請うたり、ドイツ人達が隔離されている島を訪問したことは無かったが、対照的にOKB-456のヴァレンティン・グルシュコ積極的にドイツ人達からノウハウ吸収した。OKB-456ではソビエト人のチームによってドイツから帰国直後から改良型エンジンの開発着手された。彼らは計算によりターボポンプ回転数高めて推進剤供給量と燃焼室圧力上げることで、推力大幅に増大させることが可能であると理解していた。この時、ドイツ人技術者達には新設計のエンジンの詳細知らされず、RD-100生産軌道に乗ってからは彼らの支援はもはや必要なかった。 グレトルップを首領とするドイツ人チームはG-1というロケットの設計進めた。G-1は大きさV2同じだが、推進剤タンク荷重負担するようにして構造体軽量化することにより、推進剤搭載量増やし大気圏再突入時に弾頭分離式にして、誘導制御地上から電波で行うようにして機載の誘導装置可能な限り簡略化する仕様だった。推進剤タンク荷重負担させるという概念自体は既に1920年代初頭ヘルマン・オーベルト彼の著作タンク荷重分担させるべきであると記していて、1941年ペーネミュンデ訪問時に提言していたが、当時軽量化よりも早期実用化優先されており、採用されなかった。エンジン配置大幅に変更され推進剤供給するポンプ駆動するタービン燃焼室からのガス直接駆動された。新し無線制御装置により、精度向上した速度は単に計測されただけでなく、無線軌道修正された。エンジン推力制御することで速度調整することは画期的1955年にこの装置(RKS)は開発されたが、1957年R-7大陸間弾道ミサイル搭載されるまで実用に供されなかった。誘導装置簡略化され、1自由度ジャイロスコープ備えられV2ではAskaniaという油圧式操舵装置搭載されていたが、G-1では空圧式変更され、これにより付随装置大幅に軽量化され、構造体重量は3.17トンから1.87トン大幅に軽量化され、弾頭重量は750kgから950kgへ増加して尾翼小型化され、機体軽合金になったドイツ人技術者達はロケットソビエト国産化貢献したが、ドイツ人設計よるもの一つ生産されたものはなかった。1950年代ソ連技術者十分な経験を積むと、ドイツ人技術者東ドイツ帰国させられた。 ドイツ人技術者ノウハウをもとに、ソ連開発したミサイルにはV2コピーR-1、射程延伸型R-2、R-3計画のみ)、ソ連最初に核弾頭搭載したR-5およびR-5M(NATO名:SS-3 Shyster)などがある。スカッドNATO名:SS-1b/c SCUDソ連名称:R-11およびR-17ミサイルはそれらの技術から発展した戦術ミサイルである。 同様にイギリス少数V2ミサイル捕獲しいくつか北ドイツ射場バックファイア作戦として打ち上げた。しかし、関係した技術者はすでに、試験完了後にアメリカに移ることに合意していた。同作戦の報告は、あらゆる支援手順専用車両そして燃料合成を含む広範囲技術文書残したフランス軍研究局(DEFA)もまたドイツからの資料得てイギリス追求あきらめたペーネミュンデ系のドイツ人技術者ヴェルノン招聘し、弾道技術・航空力学研究所LRBA)を設立陸軍将来ミサイル開発行わせることとした。ジャン=ジャック・バールLRBA参加したほか、ドイツ人研究者にはアリアンバイキングエンジン生み出したハインツ・ブリュンゲルや磁気軸受開発したヘルムート・ハーベルマン(フランス語版)(Helmut Habermann)も含まれていた。フランスでは欧州での第二次世界大戦終結後のわずか1週間後1945年6月12日戦時中ドイツ開発されロケット技術入手するためのCEPACentre for Study of Guided Missiles)が設立された。1946年5月から9月にかけてフランスはこの目的のために30人ドイツ人技術者達を雇用してヴェルノンLRBA施設設立した1946年8月にこのグループは既に後にアリアンロケットへと発展する液体推進系の開発着手していた。2段階の計画策定された。先ずはフランス国内でV2ロケット量産試験施設必要だった。そこではV2ロケット発展型であるA8開発量産予定された。1946年11月アルジェリアのColomb-ベシャール近郊施設V2飛行試験のために選定された。試験順調に進むかに見えたが、1947年初頭アメリカソビエトフランスが必要とした30機のV2取得阻み、そのため、アルジェリア飛行試験開始することが出来なくなったLRBAドイツ人技術者達は4211計画一環フランスA8飛行試験実施できるように開発支援した並行してジャン=ジャック・バールチームは4212計画一環として純粋なフランスロケットであるEA1941の開発進めたA8を基に計画されシュペルV-2ロケット外見こそV2ロケット似ていたものの、推力40トン強化され戦略兵器として有効な推進剤ケロシン常温でも貯蔵可能な硝酸酸化剤として使用するものになった開発は主に理論面と硝酸取り扱い推力40トンエンジンガス発生器地上試験実施されたが、予算並行する2計画投じることは出来ないという政府判断により、試作機製造するための予算拠出されず、1948年シュペルV2計画中止され4トン推力エンジン備えた1/10サイズヴェロニク/4213計画になったLRBA任務V2改良であった1946年から1949年にかけてドイツフランスの占領地でドイツ人技術者達に開発進めさせた。A8計画を基にしたシュペルV-2呼ばれた改良型V2では製造簡素化されタンク構造とより剛性の強い特殊鋼採用エンジン推力を40tに向上させ、射程を700kmに向上させる計画であった。しかし、軍はLRBAソ連爆撃機脅威対抗するべくパルカParca長距離対空ミサイル開発要請しDEFA1949年計画棚上げ決定した対空ミサイル計画試作機要求満たせない状態が続き1958年アメリカホークミサイルライセンス生産決定したことで計画停止されたものの、追跡装置アクチュエーターに関する研究ホークミサイル対すLRBA関与深めることができた。 一方バールチーム並行して開発進めていたドイツ人技術者チーム1949年により技術的難易度の低い推力4トン液体燃料エンジン搭載し、高度100kmの弾道飛行中に60kgの科学機器を運ぶことを目標としたヴェロニクロケットを開発した誘導システム持たず推進剤加圧システムターボポンプがないなど簡素化が行われたものの、当初は不安定燃焼問題突き当たった。しかし、1954年解決果たしアルジェリア南部アマギールから試験機打ち上げが行われた。以後、こちらがフランスロケット開発主流になる。 その後国際地球観測年観測一環として上層大気研究が行われることとなり、より強力なヴェロニクAVI作られた。これは200kmの高度に装置類を投入することを目的とした。予算上の理由から初打ち上げ1959年3月7日行われた。これは失敗だったものの、3日後に行われた2号機は137kmの高度に達し上層大気で風を測定する科学実験を行うことができた。同型機1959年から1969年までの間に48機が打ち上げられ、81.5%の成功記録した続いてヴェロニクAGI開発され生き物への加速度振動影響研究するために利用された。ヴェロニクAGIは高度365kmに到達している。 カナディアン・アローではA4のエンジンレプリカ使用する予定地上試験まで実施された。

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