戦後の V2 の利用
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「V2ロケット」の記事における「戦後の V2 の利用」の解説
戦争末期には、V2ロケットと技術者たちをできるだけ多く獲得するレースが行われた。1945年8月半ばにアメリカ軍はペーパークリップ作戦の下で貨車300両分の V2 と部品を鹵獲、オルガー・N・トフトイ大佐は、ジョージ・パットン大将率いる第3軍に投降したフォン・ブラウンやドルンベルガー将軍をはじめとする126人の主要な設計技術者をアメリカに連れ帰った。ニューメキシコ州ホワイトサンズ・ミサイル実験場には215機分の燃焼器と180機分の推進剤タンクと90機分の尾翼と100機分の黒鉛の偏流板と200機分のターボポンプが持ち込まれた。当初は大半のドイツ製ロケットはアメリカで飛行可能な状態で持ち帰られたと考えられたが、実際にはどれも飛行可能ではなく、ゼネラルエレクトリック(GE)社が陸軍工廠とV2組み立てと発射の契約を交わした。 接収され、ホワイトサンズに持ち込まれたV2の部品は豊富にあったものの、制御装置のような機材は逼迫していた。ドイツから接収したジャイロスコープは50台のみで、大半は劣悪な状況であった。それぞれのロケットには2台のジャイロスコープが必要で、他にも配電盤の多くの配線が不足していることが判明したため、試射計画の後半にはGE社はジャイロスコープと誘導装置を製造するとともに、経年劣化していたドイツ製推進剤配管を交換した。V2の52%に変更が施されホワイトサンズから発射され、71%は設計重量を超えた。2,200 lb (1,000 kg)の弾頭を含むV2の標準的な空虚重量は8,000 lb (3,600 kg)だったが、発射されたロケットの空虚重量はペイロードが19%増えたことにより9,218 lb (4,181 kg)になり、1951年以降は全てのV2に改良が施され、47%以上ペイロードが追加されたことで最大全備重量は28,400 lb (12,900 kg)になった。 全ての部品は組み立て前に性能と状態が検査され、修理や調整が必要な部品は再度試験された。大型部品は組み付け前に完全に試験が実施され、2回の総合試験が組み立て棟を離れる前に実施され、射点では総合試験が前日に実施され、発射当日に推進剤が充填された。 その後数年間、アメリカのロケット計画は未使用のV2ロケットを活用して進められた。これらの改良型V2のひとつである2段式の「バンパー」は、1949年2月24日の試験飛行で当時の高度記録である 400 km を達成した。 V2の打ち上げは68%が成功したが、失敗した打ち上げからも多くの貴重な情報が得られた。1946年から1952年にかけて合計67機のV2ロケットがホワイトサンズから発射され、多くの価値ある情報をアメリカにもたらした。 フォン・ブラウンはアメリカ陸軍のレッドストーン兵器廠に勤務し、1950年からはアラバマ州ハンツビルに居住。後にレッドストーン、ジュピター、ジュピター-C、パーシングそしてサターンなど、ほぼ全てのアメリカのロケットの生みの親となった。 アメリカ海軍では接収したV2を小型化したヴァイキングを開発して後に人工衛星打ち上げ用のヴァンガードに発展させた。 ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえた。元共産党員の妻を持つヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup)がこのグループを率いた。彼らはドイツ国内でロケット研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したが、戦後、しばらくの間ドイツ国内でソビエト人技術者達と共に開発作業に従事したが、1946年にソ連は突如、彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせた。セルゲイ・コロリョフのチームはV2ロケットの複製R-1を製作する。コロリョフはドイツ人に教えを請うたり、ドイツ人達が隔離されている島を訪問したことは無かったが、対照的にOKB-456のヴァレンティン・グルシュコは積極的にドイツ人達からノウハウを吸収した。OKB-456ではソビエト人のチームによってドイツから帰国直後から改良型のエンジンの開発に着手された。彼らは計算によりターボポンプの回転数を高めて推進剤の供給量と燃焼室の圧力を上げることで、推力を大幅に増大させることが可能であると理解していた。この時、ドイツ人技術者達には新設計のエンジンの詳細は知らされず、RD-100の生産が軌道に乗ってからは彼らの支援はもはや必要なかった。 グレトルップを首領とするドイツ人のチームはG-1というロケットの設計を進めた。G-1は大きさはV2と同じだが、推進剤のタンクが荷重を負担するようにして構造体を軽量化することにより、推進剤の搭載量を増やし、大気圏再突入時に弾頭を分離式にして、誘導、制御を地上から電波で行うようにして機載の誘導装置を可能な限り簡略化する仕様だった。推進剤のタンクに荷重を負担させるという概念自体は既に1920年代初頭にヘルマン・オーベルトが彼の著作でタンクに荷重を分担させるべきであると記していて、1941年にペーネミュンデを訪問時にも提言していたが、当時は軽量化よりも早期の実用化が優先されており、採用されなかった。エンジンの配置も大幅に変更され、推進剤を供給するポンプを駆動するタービンは燃焼室からのガスで直接駆動された。新しい無線制御装置により、精度が向上した。速度は単に計測されただけでなく、無線で軌道を修正された。エンジンの推力を制御することで速度を調整することは画期的で1955年にこの装置(RKS)は開発されたが、1957年にR-7大陸間弾道ミサイルに搭載されるまで実用に供されなかった。誘導装置も簡略化され、1自由度のジャイロスコープが備えられ、V2ではAskaniaという油圧式の操舵装置が搭載されていたが、G-1では空圧式に変更され、これにより付随装置も大幅に軽量化され、構造体の重量は3.17トンから1.87トンに大幅に軽量化され、弾頭重量は750kgから950kgへ増加して、尾翼は小型化され、機体は軽合金製になった。ドイツ人技術者達はロケットのソビエトの国産化に貢献したが、ドイツ人の設計によるものは一つも生産されたものはなかった。1950年代にソ連の技術者が十分な経験を積むと、ドイツ人技術者は東ドイツに帰国させられた。 ドイツ人技術者のノウハウをもとに、ソ連が開発したミサイルにはV2のコピーR-1、射程延伸型R-2、R-3(計画のみ)、ソ連で最初に核弾頭を搭載したR-5およびR-5M(NATO名:SS-3 Shyster)などがある。スカッド(NATO名:SS-1b/c SCUD、ソ連名称:R-11およびR-17)ミサイルはそれらの技術から発展した戦術ミサイルである。 同様にイギリスは少数のV2ミサイルを捕獲し、いくつかを北ドイツの射場でバックファイア作戦として打ち上げた。しかし、関係した技術者はすでに、試験完了後にアメリカに移ることに合意していた。同作戦の報告は、あらゆる支援手順、専用の車両そして燃料合成を含む広範囲な技術文書を残した。 フランス軍備研究局(DEFA)もまたドイツからの資料を得て、イギリスが追求をあきらめたペーネミュンデ系のドイツ人技術者をヴェルノンに招聘し、弾道技術・航空力学研究所(LRBA)を設立、陸軍の将来ミサイルの開発を行わせることとした。ジャン=ジャック・バールもLRBAに参加したほか、ドイツ人研究者にはアリアンのバイキングエンジンを生み出したハインツ・ブリュンゲルや磁気軸受を開発したヘルムート・ハーベルマン(フランス語版)(Helmut Habermann)も含まれていた。フランスでは欧州での第二次世界大戦終結後のわずか1週間後の1945年6月12日に戦時中のドイツで開発されたロケット技術を入手するためのCEPA(Centre for Study of Guided Missiles)が設立された。1946年の5月から9月にかけてフランスはこの目的のために30人のドイツ人技術者達を雇用してヴェルノンにLRBAの施設を設立した。1946年8月にこのグループは既に後にアリアンロケットへと発展する液体推進系の開発に着手していた。2段階の計画が策定された。先ずはフランス国内でV2ロケットを量産と試験施設が必要だった。そこではV2ロケットの発展型であるA8の開発と量産が予定された。1946年11月にアルジェリアのColomb-ベシャール近郊の施設がV2の飛行試験のために選定された。試験は順調に進むかに見えたが、1947年初頭にアメリカとソビエトがフランスが必要とした30機のV2の取得を阻み、そのため、アルジェリアで飛行試験を開始することが出来なくなった。LRBAのドイツ人技術者達は4211計画の一環でフランスがA8の飛行試験を実施できるように開発を支援した。並行してジャン=ジャック・バールのチームは4212計画の一環として純粋なフランス製ロケットであるEA1941の開発を進めた。 A8を基に計画されたシュペルV-2ロケットは外見こそV2ロケットに似ていたものの、推力は40トンに強化され、戦略兵器として有効な推進剤はケロシンと常温でも貯蔵可能な硝酸を酸化剤として使用するものになった。開発は主に理論面と硝酸の取り扱いと推力40トンのエンジンのガス発生器の地上試験が実施されたが、予算を並行する2計画に投じることは出来ないという政府の判断により、試作機を製造するための予算は拠出されず、1948年にシュペルV2計画は中止され、4トンの推力のエンジンを備えた1/10サイズのヴェロニク/4213計画になった。 LRBAの任務はV2の改良であった。1946年から1949年にかけてドイツのフランスの占領地でドイツ人技術者達に開発を進めさせた。A8の計画を基にしたシュペルV-2と呼ばれた改良型V2では製造が簡素化され、タンク構造とより剛性の強い特殊鋼の採用でエンジン推力を40tに向上させ、射程を700kmに向上させる計画であった。しかし、軍はLRBAにソ連爆撃機の脅威に対抗するべくパルカ(Parca)長距離対空ミサイルの開発を要請し、DEFAは1949年に計画の棚上げを決定した。対空ミサイル計画は試作機が要求を満たせない状態が続き、1958年にアメリカのホークミサイルのライセンス生産が決定したことで計画は停止されたものの、追跡装置やアクチュエーターに関する研究はホークミサイルに対するLRBAの関与を深めることができた。 一方、バールのチームと並行して開発を進めていたドイツ人の技術者のチームは1949年により技術的難易度の低い推力4トンの液体燃料エンジンを搭載し、高度100kmの弾道飛行中に60kgの科学機器を運ぶことを目標としたヴェロニクロケットを開発した。誘導システムを持たず、推進剤加圧システムにターボポンプがないなど簡素化が行われたものの、当初は不安定燃焼の問題に突き当たった。しかし、1954年に解決を果たし、アルジェリア南部のアマギールから試験機の打ち上げが行われた。以後、こちらがフランスのロケット開発の主流になる。 その後、国際地球観測年の観測の一環として上層大気の研究が行われることとなり、より強力なヴェロニクAVIが作られた。これは200kmの高度に装置類を投入することを目的とした。予算上の理由から初打ち上げは1959年3月7日に行われた。これは失敗だったものの、3日後に行われた2号機は137kmの高度に達し、上層大気で風を測定する科学実験を行うことができた。同型機は1959年から1969年までの間に48機が打ち上げられ、81.5%の成功を記録した。続いてヴェロニクAGIが開発され、生き物への加速度や振動の影響を研究するために利用された。ヴェロニクAGIは高度365kmに到達している。 カナディアン・アローではA4のエンジンのレプリカを使用する予定で地上試験まで実施された。
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