戦後の31形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 13:50 UTC 版)
戦時中から戦後にかけて時期は不明ではあるが、北大阪線の架線が単架線化されたことにより31形もマイナス側のポールを撤去して全車シングルポールとなったほか、90の制御器も元のTDK-QB1-LBTに換装された。1形の項でも述べたように、4個モーターで出力に余裕のある31形は、戦後は運用の中心を国道線にシフトした。この間、1形同様塗色を71形以降と同じベージュとマルーンのツートンカラーに変更、社章は側面左側のドア横に、ナンバーは正面右下と側面右側のドア横に記入された。 1949年から1950年にかけて神戸方のトロリーポールをYゲルに変更、大阪方のポールは予備として残されたが、その後撤去された。同じころに保護棒も復旧されたほか、尾灯を正面左窓上に移設した。1954年12月15日の摂津車輌での火災で39が全焼、翌1955年に廃車となった。 その後は一部の車両がベンチレーターをガーランド型に換装したくらいで大きな変化のなかった31形であったが、1967年に81が、翌1968年に31がそれぞれ制御器を東芝製の油圧カム軸式間接制御装置であるRPM-100に換装された。登場後40年近く経過した1960年代後半から1970年代初めにかけて38・40を除いた全車の車体更新を実施、使わなくなった行先方向幕を埋めたほか、トロリーレトリバーが車掌台側から運転台側に移設され、車体がノーリベットとなった。 その後も31形は国道線と北大阪線を中心に運用され、1974年3月の国道線西灘 - 上甲子園間廃止時に5両が廃車されたが、残る14両は1975年5月5日の併用軌道線の廃線時まで運用され、最終日には31形が前年の西灘 - 上甲子園間の廃止時同様、2扉の幅広い側面を生かして装飾電車に起用され、廃止とともに全車廃車となった。廃車後の保存車両は存在しない。
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