戦後のT87とレドヴィンカ
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「タトラ (自動車)」の記事における「戦後のT87とレドヴィンカ」の解説
戦後もT87の生産は続いた。主なユーザーは新たに成立したチェコスロバキア共産政府であった。 1947年、チェコの若いジャーナリストであったミロスラフ・ジクムント(Miroslav Zikmund, 1919年-)とイルジー・ハンセルカ(Jiri Hanzelka, 1920年 - 2003年)は、タトラから提供されたT87で世界旅行に出発した。二人の乗ったT87は、灼熱の過酷な気候と悪路に対しても、独立懸架と空冷エンジンのタフネスさを遺憾なく発揮し、時には事故にも遭いながら、1950年までの間に、アフリカや中米の奥地にまでその足跡を残した。二人はこの旅行によって多くのルポルタージュを著し、それらはチェコスロバキアでのベストセラーとなった(後期の旅行の足は、タトラ製トラックのT805に変更された)。ジクムントとハンセルカの愛車となったT87は、2011年現在でも記念車としてプラハの博物館に展示されている。 戦前の有名な高級車メーカーで航空エンジンメーカーでもあったイタリアのイソッタ・フラスキーニ社は、戦後に自動車生産の再開を計画し、そのメカニズムのベースに――どのような理由からかは不明であるが――タトラT87を採用した。これは結局不幸な結果に終わった。1947年から開発を進められたリアエンジン試作車「ティーポ8C・モンテローザ」(Tipo 8C Monterosa)は、8Cのネームが示すようにタトラタイプの8気筒エンジンを搭載しており、イタリアのカロッツェリアの手でダミーグリルを持つフルワイズ・オープンタイプの美しい流線型クーペおよびカブリオレボディが架装された。しかし、高速安定性の悪さと空冷エンジンの騒音はいかんともしがたく、1949年には生産化が放棄された。結局、名門イソッタ・フラスキーニは復活しなかった。 1948年、ボディの前面がリニューアルされ、ボウエンギョの目のように筒状に突き出ていた3灯のヘッドライトはフェンダーおよびボンネットの大きなアーチにカバーガラスのレベルまで埋め込まれ、バンパーも刷新された。このモデルは1950年まで生産されたが、従来型も並行して生産された。 T87末期形として「タトラプラン」似の平凡な2個ヘッドライトやダミーグリル付のマイナーチェンジデザインのモデルが開発されたが、少数製造されたのみである。 T87は、1950年までに3018台が製造された。14年間の製造台数としては決して多いとは言えず、また大型乗用車におけるリアエンジン方式と空冷エンジンも、タトラ以外には普及しなかった手法であったが、軽量な空力ボディの有効性を実地に示したという点では、極めて先駆的な存在として評価に値する。 ハンス・レドヴィンカは共産体制下でナチ協力者の汚名を着せられ、1951年まで獄中にあった。釈放後、政府からタトラ復帰を打診されたが、政府の態度豹変ぶりに不信を抱いた彼は「それならもっと早く私を釈放すべきだった」とオファーを断り、息子エーリヒと共にオーストリアへ移った。エーリヒはのち、シュタイア社で軍用車両の技術開発に当たっている。 晩年のハンス・レドヴィンカは、技術コンサルタントとしてエンジンメーカー等への助言を行った。空冷エンジンの専門家と目されていた彼であったが、「騒音・振動面から言えば、水冷エンジンの方が望ましい。空冷にこだわり過ぎるべきでない」というコメントを残している。 レドヴィンカは、ドイツのミュンヘンへ移った最晩年まで自らの手がけた「T87」に乗り続けた(愛用の「T87」セダンは1965年に、ミュンヘンのドイツ博物館に寄贈された)。1967年3月2日、ミュンヘン市内で路上横断中、交通事故に遭い死去。89歳であった。
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