観光史学
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観光史学(かんこうしがく)とは、主に第二次世界大戦後に地域の歴史において、観光資源として動員することを理由に創作された歴史観[1][2]。
- ^ 「新潟県の百年と民衆」第1編 越佐第1章 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿
- ^ a b 参考文献の1、173頁
- ^ 会津という神話―“二つの戦後”をめぐる“死者の政治学 p42-48,田中 悟
- ^ 参考文献の6、56頁。
- ^ 参考文献の2、174-188頁。参考文献の7、162-163頁。
- ^ 参考文献の7、163-164頁。
- ^ 参考文献の7、146-148頁、165頁。
- ^ 田中は「近代において戦死者で縁取られた《会津》なる枠組みに沿ってアイデンティティを見出そうとする試み自体の意義」を問うことがこの問題の解決ではなく、一人称の共同体(自分たちの社会)が3人称の他者(なかんづく3人称の死者)に対して開かれない事に警鐘を鳴らしている(参考文献の6、75頁)。
- ^ 杉村楚人冠「会津の旅 第二回」東京朝日新聞、1926年(大正15年)5月18日。後述の通り、当時「ムッソリーニが白虎隊の記念碑を贈ることを希望している」という報道がなされていた。
- ^ 「鉄筆」東京朝日新聞、1926年(大正15年)5月28日
- ^ 第二次大戦中にはそこから多くの兵士が送り出され多くの戦死者も出た(参考文献の1、63頁、宮崎)。
- ^ 実際にはムッソリーニと親交のあった下位春吉が「感激して記念碑を贈ることを希望している」という話を創作して当時の若松市長に伝えたことが発端であったが、新聞報道を通じて著名人の賛助も集まり記念碑を建てざるを得なくなったため、外務省がムッソリーニに打診して贈られたという経緯であった(福家崇洋『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』河出書房新社、2012年、46‐52頁)。
- ^ パイロットのマルガ・フォン・エッツドルフのいとこに当たる。
- ^ 中村彰彦『保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主』中央公論社、1995年、ISBN 978-4121012272
- ^ 参考文献の8、53頁、(田中 悟)。
- ^ a b 宮崎十三八『私の城下町 会津若松』国書刊行会、1985年、ASIN: B000J6V8EC
- ^ 「萩との姉妹都市問題」(参考文献の1、77-78頁)。
- ^ 「時二官命ハ彼我ノ戦死者一切ニ対シテ何等ノ処置モ為ス可カラズ……」「明治戊辰殉難者之霊奉祀之由来」の碑文(参考文献の12、77頁)。
- ^ 西軍側戦死者の埋葬は明治元年10月の大垣藩を機に開始(参考文献の12、77頁)、会津軍側戦死者は明治2年2月14日に許可(黙認とも)を受けた(参考文献の3、38頁)。
- ^ 畑敬之助は『会津若松史5』の「……民政局時代は、…わずか八箇月の期間だった。占領軍(民政局)は加賀・松代・越前・高田の諸藩からなり、軍政の事務を行った」との記述から、この件に関して長州藩の直接の関わりには否定的であり、当時の太政官(軍務官10名中2名は長州藩士(大村益次郎・桜井慎平)である)による命令の可能性を言及しているが(参考文献の3、40頁)、そのような軍令を出すこと自体にも懐疑的である(参考文献の3、177頁)。
- ^ 司馬遼太郎『王城の護衛者』に対する早川廣中(第29代会津若松市長)のコメント(参考文献の7、154頁)。
- ^ また、テレビ放送では、日本テレビの歳末時代劇ドラマ「白虎隊」(1986年)が話題となり、翌年の会津観光客は30パーセント増という数字を出したが、会津雪冤のために孝明天皇の宸翰を西郷頼母が鶴ヶ城を抜け函館に赴くという筋などについて、あまりの反響の大きさに宮崎が史実ではなく作者の創作であると弁明に努める程であった(参考文献の2、171-172頁、牧野 登)。
- ^ 「宮崎十三八の《巡礼》が意味するもの」、参考文献の8、71-72頁。
- ^ 「会津観光の新展開と会津の現地点」、参考文献の8、73-74頁。
- ^ 比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
- ^ 東北論 - 内田樹の研究室
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