雪冤勤皇期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 05:01 UTC 版)
明治維新以降、会津を賊軍ではないとする雪冤運動から始まり、旧会津藩士からなる『七年史』『京都守護職始末』等の出版による会津からの意見陳述がなされた。昭和期にジャーナリストの徳富蘇峰やその秘書で会津出身である早川喜代治等による「会津藩は朝敵にあらず」といった戦意昂揚的なプロパガンダなどにも絡んできた。その中で、大正年間より白虎隊終焉の土地である飯盛山を観光施設として喧伝しようとした動きが、「観光客を目的とした歴史の利用」の先鞭を告げる。当時より飯盛山の観光化に対しては批判があり、東京朝日新聞の杉村楚人冠は墓地整備の観光化に関して「この旧形破壊は何事だ。ムソリニがそれほどえらいのか」と厳しく批判している。これに対して、元白虎隊士でもあった山川健次郎は「一はもつて英霊を慰め一はもつて教育資料とするに便ならすむるためには、変更は止むを得ざる」と反論している。 明治期の会津領民の状況は会津世直し一揆に遭遇したウィリアム・ウィリスが記述している。
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