歴史小説と報道の影響とは? わかりやすく解説

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歴史小説と報道の影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 05:01 UTC 版)

観光史学」の記事における「歴史小説と報道の影響」の解説

しかし、順調に見えた宮崎の「観光史学」の展開は、戊辰100年祭を迎え1967年契機に、歴史的和解のために萩市青年会議所からの和解友好関係勧誘を受けながらこれを会津若松市青年会議所拒絶するような事態直面する。その約20年後の「会津戊辰戦争120年祭」にあたる1987年再度萩市側から和解申入れが行われた際には、会津若松市長の応諾意図覆すほどの市民反対意見噴出した。これは、場を取り持つことに腐心した宮崎自身当惑する事態であった。 これらの長州萩市への和解への拒絶反応背景には、宮崎置き去りにしていた戊辰戦争における会津長州対す怨念があった。すなわちその怨念とは、戊辰戦争後長州藩を含む明治新政府軍が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人農民死体埋葬禁じ放置され藩士女性子供死体腐敗して、烏の餌になったとされる逸話や、戊辰戦争後山縣有朋長州閥によって会津の人達が様々な部分冷遇されたことがその原因とされている。会津若松市民の中には賊軍という理由だけで埋葬禁じた蛮行についての謝罪一切ないことに対して未だ許せない考える人もいる。 しかし、会津藩戦死者対す埋葬禁止の話の根拠とされる明治戊辰戦役殉難之霊奉祀由来」に記されている官命では、彼我戦死者、つまり会津側と新政府側、双方戦死者対す一切処置禁止する内容となっており、会津藩死者埋葬のみを禁じたものではなく死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置考えられる。また戊辰戦争後会津民政任され遺体埋葬担当した会津民政局長州藩関係者は全くいないこのように長州対す怨念には根拠薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時怨念呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響指摘されている。 とりわけ戦後の《会津語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、当初宮崎歴史散歩世界観」に特徴付けられていた怨念源流忘却をむしろ前提として、司馬遼太郎早乙女貢綱淵謙錠中村彰彦らの《会津もの》小説新たな怨念源泉提供したとされるマスメディアはこれらの小説事実のように紹介したために、会津住民一方的な遺恨もたらすこととなったまた、宮崎十三八自身もこの「怨念史観」を肯定的に受け止めざるを得なかった。こうして、宮崎の提唱した「観光史学」は「歴史散歩」と「怨念史観」という矛盾した2側面を持つようになり、それが彼自身苦悶の末に「観光史学」の否定的脱却による、郷土会津の「古寺巡行」へと変容させたという。

※この「歴史小説と報道の影響」の解説は、「観光史学」の解説の一部です。
「歴史小説と報道の影響」を含む「観光史学」の記事については、「観光史学」の概要を参照ください。

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