歴史小説と報道の影響
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しかし、順調に見えた宮崎の「観光史学」の展開は、戊辰後100年祭を迎える1967年を契機に、歴史的和解のために萩市の青年会議所からの和解・友好関係の勧誘を受けながらこれを会津若松市の青年会議所が拒絶するような事態に直面する。その約20年後の「会津戊辰戦争120年祭」にあたる1987年に再度の萩市側からの和解の申入れが行われた際には、会津若松市長の応諾の意図を覆すほどの市民の反対意見が噴出した。これは、場を取り持つことに腐心した宮崎自身も当惑する事態であった。 これらの長州・萩市への和解への拒絶反応の背景には、宮崎が置き去りにしていた戊辰戦争における会津の長州に対する怨念があった。すなわちその怨念とは、戊辰戦争後に長州藩を含む明治新政府軍が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人、農民の死体の埋葬を禁じ、放置された藩士や女性、子供の死体は腐敗して、烏の餌になったとされる逸話や、戊辰戦争後も山縣有朋ら長州閥によって会津の人達が様々な部分で冷遇されたことがその原因とされている。会津若松市民の中には、賊軍という理由だけで埋葬を禁じた蛮行についての謝罪が一切ないことに対して、未だ許せないと考える人もいる。 しかし、会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。 とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、当初「宮崎の歴史散歩的世界観」に特徴付けられていた怨念の源流の忘却をむしろ前提として、司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。また、宮崎十三八自身もこの「怨念史観」を肯定的に受け止めざるを得なかった。こうして、宮崎の提唱した「観光史学」は「歴史散歩」と「怨念史観」という矛盾した2側面を持つようになり、それが彼自身の苦悶の末に「観光史学」の否定的脱却による、郷土会津の「古寺巡行」へと変容させたという。
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