歴史家の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/10 14:14 UTC 版)
「砕氷船 (スヴォーロフ)」の記事における「歴史家の見解」の解説
1941年にはソビエトのドイツ侵略が差し迫っていたというスヴォーロフの見解は、歴史家の多数に支持されてはいない。 スヴォーロフの主張に対する注目すべき反証はデーヴィッド・グランツ大佐(Colonel David Glantz)の著書 Stumbling Colossus: The Red Army on the Eve of World War (よろめく巨像:世界大戦直前の赤軍)にある。 グランツはスヴォーロフの主張が様々な面で「信じがたい」と見ている。まずスヴォーロフは機密扱いされた旧ソビエトの書類資料はその検証をしないで拒み、回顧録から極めて意図的な選択を行っている。グランツはこのことが重大な方法論的欠陥と指摘している。さらにグランツが主張することはスヴォーロフの主張が旧ソビエトおよびドイツの文書資料と矛盾し、そして事実は赤軍ではドイツを侵略する準備がされていたというスヴォーロフの主張を支持しないということである。逆に準備の欠如はひどく、訓練程度は低く、展開は最悪であったことは拠点防衛の準備ができていなかったことを示し、まして大規模攻勢行動ということはなかった。グランツの結論は「スターリンは悪質な専制君主であったが狂ってはいなかった」である。 スヴォーロフの主張は1941年7月8日が攻撃の日に選ばれたとしているがこれはグランツなどによって示された証拠と矛盾する。侵略を実行するために必要とされる燃料、弾薬その他の備蓄が前面の地域に無かった。主要な地上部隊は侵略を準備するなら軍需物資を配給する鉄道の拠点に集中するはずであるが実際は分散して小さな駐屯軍になっていた。例えば主要な砲兵部隊は動けないままにされていたなど各部隊はその輸送手段を伴っていなかった。空軍の航空機は、分散しておらず、その離着陸場に整然と押し込められるように並べられていた。1941年6月22日の時点では、ソビエトの戦車全部の50%以上が本格的なメンテナンスを必要としていた。侵略が計画されていたなら、これらのメンテナンス作業は完了されていた。ソビエト機甲部隊の大部分は新しいタンク部隊編成への再編成の途上にあった。ドイツの侵略は、この再編成の途上にあった部隊を捉えている。そのような大規模な再編成は間近に迫った侵略行為と矛盾する。 スヴォーロフの主張の根源は1941年前半ジューコフ元帥がドイツに対する先制攻撃を提案したという事実かもしれない。ジューコフは後にこの計画を振り返っているがその計画はスターリンに拒絶されたか、あるいはまったくスターリンまで伝わらなかったと主張している。これは軍事史家ミハイル・メリチュホフ(Mikhail Meltyukhov)が指摘しているように説得力が十分あることではない。まず、ジューコフがスターリンに届けられるように秘書に最高機密の文書を渡したというジューコフの主張は信じがたいことである。次にその文書には署名がないことは実際には何の証明にもならないというスヴォーロフを否定する者たちの主張がある。その時期には公式の軍事文書のほとんどは整然とした形式化がなされないまま渡されるだけだったことが知られている。 1941年6月22日、ソビエト西側国境付近で対峙していた軍事力ドイツと同盟国ソビエト連邦比率師団 166 190 1 : 1.1 人員 4,306,800 3,289,851 1.3 : 1 カノン砲と迫撃砲 42,601 59,787 1 : 1.4 戦車 (含 突撃砲) 4,171 15,687 1 : 3.8 航空機 4,389 11, 537 1 : 2.6 出典: ミハイル・メリチュホフ(Mikhail Meltyukhov)“Stalin's Missed Chance” 47表
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