歴史家による否定的評価とは? わかりやすく解説

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歴史家による否定的評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 13:55 UTC 版)

アンドレアス・パレオロゴス」の記事における「歴史家による否定的評価」の解説

後世歴史家たちのうち圧倒的多数が、アンドレアス・パレオロゴス人物像否定的に捉えている。19世紀スコットランドの歴史家ジョージ・フィンレーは、1877年著作アンドレアスについて「最低のつまらない貴公子たちの運命を気にするような病的な価値観人類持ち合わせてさえいなかったならば、もはや歴史上注目する価値ほとんどない」などと述べている。1995年アンドレアス再評価試みたイングランドの歴史ジョナサン・ハリスによると、アンドレアス往々にしてだらしない生活で教皇寛大な支援浪費し最終的に貧苦のうちに死んだ不道徳ぜいたくなプレイボーイ」として描写される傾向があった。ハリス自身は、この通説歴史評価するうえで「まったく公平でない意図」による誤った説であるとしている。 アンドレアス悪評原因は、一部には父ソマス端を発するところもあるとされるソマスの弟(アンドレアス叔父デメトリオスオスマン帝国モレアス征服受け入れ立場で、兄弟抗争モレアス専制公領滅亡つながった。ただアンドレアス家族と共に亡命した時点でまだ7歳であり、父と叔父抗争には何ら責任が無い。1470年代から1490年代亡命パレオロゴス家経済状況極めて悪くアンドレアス称号売ろうとしたり、弟マヌエル雇い主探してヨーロッパ遍歴遂にコンスタンティノープルへ赴いてオスマン帝国に身を委ねたりするほどであった。彼らの困窮原因を彼ら自身求め批判している文献は、同世代著述家よるものの中では一つ次世代著述家よるものも一つしか確認されていない次世代のものは、1538年Theodore Spandugninoによる著作である。彼はマヌエルあらゆる面でアンドレアスより勝っていたと主張している。同世代では1481年にジェラルディ・ダ・ヴォルテッラが、アンドレアス経済的困窮は彼自身の「性遍歴悦楽」を含む度を越した浪費のせいであると主張している。こうしたアンドレアス悪評近代の歴史家たちに大きな影響与え続けているが、実際に極めて根拠乏しい。 他にも近代の歴史家たちはアンドレアス酷評するため、1479年カテリーナとの結婚に関する記述利用している。歴史家スティーヴン・ランシマンカテリーナを「ローマの街女」と評したのをはじめとして、彼女は娼婦であったとするのが通説である。その上で娼婦との結婚アンドレアス経済的没落原因一つだとする説もある。カテリーナについて言及している典拠はカメラ・アポストリカ(教皇庁財政部門)がまとめたイントロイトゥス・エト・エクシトゥスのみで、その中でカテリーナという名に触れているのは一か所のみである。そのため実際には、カテリーナ職業社会的地位は全く不明である。同時代のジェラルディ・ダ・ヴォルテッラですら、カテリーナには言及していない。初めカテリーナ悪人として描写したのは17世紀ビザンツ学者シャルル・ドゥ・フレスネであり、カテリーナに関する伝承実証不可能なのであるといえる20世紀ギリシャ人ビザンツ学者ディオニュシオス・ザキュティノスの著作Le despotat grec de Morée (1262–1460)以降アンドレアスが「娼婦カテリーナ結婚したことが教皇庁からの支援切り詰め原因であるという説が広まったが、これは全く誤りである。例え教皇シクストゥス4世は、1479年におそらくモスクワへ旅費として従来支給金の2年分にもあたる資金アンドレアス与えている。 アンドレアス浪費生活を送った可能性否定できないが、彼の経済的困窮原因はむしろ教皇庁からの支援の減少にある。当初パレオロゴス家対し住居費を支援するなど寛大な対応をとってい教皇たちであるが、彼らは一部歴史家主張するほど気前良い支援提供したわけではなかった。そのような教皇庁誇大に称賛する説が生まれた原因教皇たち自身にも求められる例えば、シクストゥス4世自身パレオロゴス家対す寛大ぶりを自らの事績ひとつとしてサン・スピリト・イン・サッシア病院フレスコ画に描かせている。中にはアンドレアスシクストゥス4世跪いて感謝している絵もある。アンドレアス広く伝えられているほど教皇の金を浪費したわけではなかった。もともと父ソマス支払われていた月300ドゥカート支援金は、1492年時点50ドゥカートまで減らされていた 。 1481年アンドレアスの対オスマン帝国遠征計画失敗についても、ほとんどの歴史家アンドレアス自身無能さ原因求めている。中にはアンドレアス教皇から寄付され資金を「ほかの目的」に「浪費した」とまで言う者もいる。しかし遠征実現しなかったとはいえアンドレアス本当に遠征に無関心であった証拠になるとは言えない。シクストゥス4世1481年9月15日イタリア中の司教向けてアンドレアスアドリア海渡海支援するため「全力尽くすように」と書き送っている。またアンドレアス自身ブリンディシ赴いていることからも、彼が本気で遠征隊を率いて帝国復興する意思持っていたことがうかがえるアンドレアス雇われギリシア人のCrocondilo Cladaは、1480年モレアス実際に反乱起こしている。彼はアンドレアスギリシア上陸成功した際に道案内務めるのに適任であったが、この反乱失敗終わった遠征計画倒れ終わったとはいえアンドレアスは単に欲望追求するためローマで時を過ごしてばかりいたのではなく積極的に遠征計画かかわっていた。 アンドレアス貧苦のうちに死んだことについて、彼が死去した時点で全く無一文であったという説も広まっている。その根拠としては、教皇アレクサンデル6世未亡人カテリーナ葬儀費用援助していることが挙げられる。ただ、こうした葬式対す寄付は、必ずしも困窮者に限って行われていたわけではない例え1487年同じくローマ亡命していたキプロス女王シャルロット・ド・リュジニャン葬儀の際にも教皇庁費用拠出しているが、シャルロット浪費家あるいは貧乏であったという記録は無い。アンドレアス名誉ある形でサン・ピエトロ大聖堂葬られていることから、少なくとも彼がある程度地位維持していたことは確かであるといえる

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