歴史家による批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 06:12 UTC 版)
スリランカの年代記であるディーパワンサとマハーワンサには、マヒンダがスリランカを訪れてデヴァーナンピヤティッサ(英語版)王を帰依させた記述が残されており、これらがマヒンダについての主要な史料となっている。さらにその他の碑文・文学作品は、マヒンダがスリランカに訪れた紀元前3世紀頃に仏教がスリランカで伝播したことを示している。また、ラージャガラ修道院に残っている碑文には、マヒンダがスリランカを訪れて仏教を伝え、その地で死没したことが記載されている。 マハーワンサには、アショーカ王の息子マヒンダがスリランカを訪れ、妹のサンガミッターが尼として菩提樹の一部をスリランカへ持参したと言う記載があるが、アショーカ王はそれらに言及していないだけでなく、古代スリランカの美術にもそのような彫刻やフレスコ画は現存していない。 マヒンダがアヌラーダプラ王国の国王を帰依させたと言う伝説にも議論の余地がある。ドイツのインド学者であるヘルマン・オルデンベルクは、この話は歴史的に不正確であると主張しており、アショーカ王と古代インドの研究者であるヴィンセント・アーサー・スミス(英語版)も同じ考えを支持している。 ヘルマンとスミスはアショーカ王碑文において、彼が息子のマヒンダを出家させ、スリランカの国王を仏教に帰依させるように命じた記述がないことを理由にこの結論に至った。 また、アショーカ王が仏僧をスリランカに派遣した年との矛盾も存在する。マハーワンサによれば仏僧は紀元前255年に到着したと記載されているが、アショーカ王の碑文には5年早い紀元前260年と記載されている。
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