アショーカ
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アショーカ(梵: अशोकः、IAST:Aśokaḥ、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。
- ^ 「世界の文字を楽しむ小事典」p94-95 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷
- ^ 「仏教史研究ハンドブック」p38 佛教史学会編 法藏館 2017年2月25日初版第1刷
- ^ 「仏教史研究ハンドブック」p5 佛教史学会編 法藏館 2017年2月25日初版第1刷
- ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p70 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
- ^ a b 「南アジア史」(新版世界各国史7)p78 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
- ^ 定方 2000, pp. 25-27/33.
- ^ 定方 2000, pp. 31-32/33.
- ^ 「仏教史研究ハンドブック」p9 佛教史学会編 法藏館 2017年2月25日初版第1刷
- 1 アショーカとは
- 2 アショーカの概要
- 3 アショーカ王の柱
- 4 日本語文献
アショーカ王
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紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。 ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。 誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼はブッダガヤの菩提樹を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の仏教徒に重要視され多くの仏典に記録されている。
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