「軍都」会津若松の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 05:01 UTC 版)
1908年(明治41年)以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年(昭和3年)にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年(昭和10年)に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフが飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。また、戦時中には保科正之がブームになった時期もあったが、会津関連著作の多い中村彰彦は「明治以降殆ど闇に埋もれてしまった」と述べている。
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