「敗者」の視点から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)
薩長土肥中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、明治維新の「敗者」、特に戊辰戦争における会津藩や奥羽越列藩同盟などの「敗者」視点から書かれたものも多数ある。戊辰戦争、新選組、小栗忠順、上野戦争、会津戦争、箱館戦争の各項目を参照。 会津藩については、司馬遼太郎が小説「王城の守護者」(1965年、別冊文藝春秋)で会津藩主松平容保の孝明天皇への忠誠を中心に会津藩の悲劇が強調されたあと、多数の《会津もの》小説が続いた。司馬をはじめ、長州への敵意が繰り返し説かれた早乙女貢の『會津士魂』(1970-1988)、綱淵謙錠『戊辰落日』(1978)、中村彰彦らの《会津もの》小説は、「怨念史観」の源泉を提供していった。石光真人編 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(1974年, 改版2017年)も出た。会津の郷土史家宮崎十三八は、「長州への怨恨」を基盤として、「会津は明治政府から徹底的にいじめられてきた」とする「観光史学」を提唱した。宮崎が新潮451992年10月号に発表した「会津人の書く戊辰戦争 ヒロシマのピカドンと同じ惨劇」では、会津への長州の砲撃とアメリカによる原爆投下とは、「一般住民を全く無差別に暴力でぶっ殺したのは、全く同じだった」とし、「会津戦争の悲劇を日本人が知っていたならば、太平洋戦争の悲劇は防げたかもしれない」と主張した。こうした宮崎の「怨念史観」に対しては、宮崎の同級生だった畑敬之助や牧野登らによる批判がある。近年では歴史作家・歴史評論家の星亮一や、原田伊織の著作がある。原田は『明治維新という過ち - 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(初版2015年、講談社文庫2017年)や『三流の維新 一流の江戸 - 明治は「徳川近代」の模倣に過ぎない』(講談社文庫 2019)などで明治維新は間違っていたと論じる。 なお、こうした「怨念史観」の一つとして、新政府軍が遺体の埋葬を禁じ、会津藩士の遺体が半年間野ざらしにされたという「埋葬禁止説」が1960年代以降現在まで流布されてきた。しかし、2016年12月に、戦死した藩士らの埋葬が記録されていた史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』が会津若松市で発見され、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令し、翌10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、567体の遺体を埋葬したことがわかった。「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に阿弥陀寺に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみて、「歴史の話を聞くと、悲劇的な部分が頭に残りやすい。歴史は、耳学問ではなく自ら学ぶ姿勢が必要」と話す。 文化人類学者山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)では、維新以後の薩長中心の階層秩序から離れた文化活動を行ったとして、淡島椿岳・淡島寒月、大槻如電、山本覚馬、大橋佐平、土田杏村、吉野作造や、旧幕臣らの事績が扱われた。
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