遺体の埋葬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:59 UTC 版)
新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、という「埋葬禁止説」が1960年代以降流布してきた。 しかし、2016年12月に、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』の写しが会津若松市で発見された。この史料には、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令した。翌日10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。埋葬経費は74両(現在の約450万円)、のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)が支給された。発見当時の服装や遺体の状態、山本権八など名前が記載されているものもある。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。 「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に阿弥陀寺に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみる。
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