遺体の搬出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「遺体の搬出」の解説
1720年8月初めごろから、教会の地下や墓地はペストの犠牲となった遺体を処理する権限を与えられなくなり、その代りに「カラス」と呼ばれる葬儀屋が隔離所に運ばなければならなくなった。8月8日になると集団墓地を設けることが義務付けられた。擲弾兵の中隊が近隣の農民を強制的に徴募し、マルセイユ市の塁壁の外に15の穴を掘削させた。 8月9日、ストレッチャーが足りなくなり、遺体の搬出を目的とする最初の墓地が出現した。8月中旬、隔離所もとうとう遺体を収容することができなくなり、遺体は街路に放置されるようになった。遺体回収用のワゴンも不足していた。市参事会員たちは馬や馬車を調達するため、地方政府と連携を取った。旧市街地のサン・ジャン地区のある狭い街路には遺体搬送用のワゴン車は立ち入ることができなかったため、遺体を馬車に運ぶためのストレッチャーが製作された。ワゴンを運転し遺体を運ぶため、ガレー船海軍工廠の中から囚人が動員され、その中でも特に貧しいガレー船の漕ぎ手が選抜された。しかし彼らは規律に乏しく、控えめに言っても「綿密な」指揮統制を必要とした。ムスティエ市参事会員自らが銃剣付の小銃で武装した4人の歩兵を伴い毎日囚人で構成された分遣隊の指揮にあたった。 市参事会員らはマルセイユ市の遺体の大部分を何とか搬出することができたが、トゥレット地区の遺体はまだ残されていた。サン・ローラン教会の近隣に位置し、船乗りとその家族が住むこの地区はペストにより壊滅的な打撃を受けた。リーブ・ヌーヴ地区の清掃で名を馳せた騎士ニコラ・ローズだけがトゥレット地区の遺体処理という任務を引き受けた。百人の囚人からなる分遣隊を率いて、1000体の遺体を2つの古い堡塁に投げ込み、遺体を石灰で被覆させた。これはペストの戦いの中でも最も有名なエピソードであった。分遣隊のうち、生存したのはわずか5人だけだった。
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