非常時の体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「非常時の体制」の解説
混乱のため、マルセイユ市でその役職に留まった役人はほとんどいなかった。ヴィギエ(国王設置による裁判所裁判官)であるルイ=アルフォンス・フォルティアの権威の下で、ピル侯爵、マルセイユ市参事会員ジャン=ピエール・ド・ムスティエ、前年の参事会員であるジャン=バティスト・エステル、ジャン=バティスト・オーディマルらは惜しみない献身と非常な勇気を示した。町役場の書記官カプス、国王検察官ピシャティ・ド・クロワザントを除き、役職に留まった協力者はほとんどいなかった。プロヴァンス地方長官補佐ジャン=ピエール・リゴール、海軍中尉ジャン=ジャック・ド・ゲランもその職務に留まった。 1720年9月4日にマルセイユに到達したフランス海軍少将シャルル=クロード・アンドロー・ド・ランジェロンは並外れて大きな権限を持っていた。彼はヴィギエや市参事会員を含むあらゆる役職者への指揮権を与えられていた。ランジェロンはマルセイユ市の秩序を維持するために派遣され、市内の巡回、市参事会員の護衛やその任務の達成のための支援、マルセイユ市への通行の規制、警邏隊の編成、感染家屋の識別と酢や焼却による消毒等、幅広い任務に従事した。市民の中にも協力者は幾人かいた。画家のミシェル・セールは流行の様子を描いた絵画を、医師のベルトランは『1720年のマルセイユの疫病に関する歴史的記述 』と名付けた回顧録として、彼ら自身が目撃した事実について非常に興味深い記述を残している。 カルダン・ルブレはプロヴァンス地方行政長官であると同時に、プロヴァンス高等法院法院長でもあったことから、称号だけでなく権限も集中していた。コルベールとルーヴォアの方法に直接影響を受けたエコール・フォンクショネール出身であり、何よりも秩序を重んじた。プロヴァンス地方において国王の代理人であり、その有能さと活動は市参事会員たちを勇気づけた。しかし、彼はペストとの戦いにおいては遠隔地に留まり、流行の拡大に伴い、エクサン・プロヴァンス、サン=レミ=ド=プロヴァンス、バルベルタンと次々に拠点を変えた。1721年3月21日にパリから来た21人の見習い外科医と内科医の集団を歓迎したのも後者の町においてであった。これらの志願者の中にジャック・ダヴィエルがいて、後に王の首席侍医かつ眼科医となった。同様に、プロヴァンス高等法院もペストを遠隔地から静観し、流行の拡大につれてサン=レミ=ド=プロヴァンスへ、次いでサン=ミッシェル・ド・フリゴレへと撤退した · 。 市参事会員の統率の下、マルセイユ市政府は3つの課題を実行した。住民への食料の供給、秩序の維持、そしてそれにもまして重要なのが遺体の搬出であった。小麦は個人や、ラングドック州領事、地方長官から購入し供給されていた。ルブレ行政長官の許可の下、裁判所と市参事会員には特別な権限が与えられ、違反行為は厳しく処罰された。遺体の搬出は人員の不足と感染への懸念から、最も過酷な作業であった。 ドミニク・アントワーヌ・マゴーが1864年に描いた「Le Courage civil : la peste de 1720 à Marseille」は、マルセイユの美術館に展示されていて、市の行政を担当する主要人物が会議している場面が描かれている。その人物は以下の通りである。立っているのがニコラ・ローズ、彼が左手で示しているのがベルサンス司教、テーブルの周りには市参事会員エステル、ディユーデ、背を向けているオーディマール、ムスティエが、騎士ニコラ・ローズの右には肘をついて深い瞑想に没頭しているように見えるランジェロン司令官が描かれている。背景と左側には、画家のミシェル・セール、ミルリー神父、カプチン修道士が描かれている。
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