「観光史学」の形成期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 05:01 UTC 版)
直接的な第二次大戦の戦争被害を受けなかった会津若松市では、戦後に「軍国主義的である」という理由で上記のような運動が顧みられなくなり、会津若松から出征したはずのこの近代戦における戦死者さえも遺族を除けば大方は忘却されるに至った。これが、以降の戦後会津の観光都市化政策において、近代戦の戦死者ではなく戊辰戦争の戦死者の、いわば現代への召還という状況を後々に生み出すことになる。すなわち、地方史の視点で明治維新を再検証する姿勢が出てくるようになり、これに戦後復興からくる観光ブームから、白虎隊が観光資源として扱われるようになった。これより、会津は観光資源が「会津の自然」より「会津の歴史」にシフトされるようになる。また、1957年には戊辰戦役90年祭として会津まつりが行われるようになり、白虎隊のパレードを見られるようになった。 会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が、会津若松のスポークスマンとなってから観光と歴史のセッティングが始まる。宮崎は日本の敗戦により皇国史観の鎖が断ち切られた事で「それまで自分たちが(痛み)に耐えつつ無実を訴えつづけてきた壁が、一夜にして取り払われた」と主張し、次々に会津より作品を発表し始める。宮崎自身は「幕末だけでなく、上杉、加藤、保科と、鶴ヶ城をめぐる各時代の“時代劇散歩”をおいかけてゆきたい」と語り、歴史のロマンを語る、即ち「歴史」としてのロマンと地域の観光も含む「観光歴史」を語るようになる。宮崎十三八の「観光史学」には、美しい郷土の自然と歴史ロマンを訪ねる、この「歴史散歩」的世界観が特徴となっていたが、それは当時の観光都市政策と合致したものであった。その一方では、戊辰戦争や近代戦争における戦死者の非業の死やその不条理とも離れた「死者不在」の、そして敗戦前には強く求められていた国家との関わりのない、つまり「ネイション不在」の側面を合わせ持っていた。
※この「「観光史学」の形成期」の解説は、「観光史学」の解説の一部です。
「「観光史学」の形成期」を含む「観光史学」の記事については、「観光史学」の概要を参照ください。
- 「観光史学」の形成期のページへのリンク