安奉軽便線
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1904年11月3日 - 「臨時鉄道大隊」により安東-鳳凰城間開業。 1905年2月11日 - 鳳凰城-下馬塘間開業。 7月15日 - 「臨時軍用鉄道監部」が建設・運営を引き継ぐ。 12月15日 - 下馬塘-奉天間開業、全通。 1906年4月1日 - 軍需品輸送の合間を縫って一般営業開始。 9月1日 - 野戦鉄道提理部に譲渡。
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安奉軽便線
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営業区間:安東-奉天 路線距離(営業キロ):304km 軌間:762mm 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし 当線の奉天駅は本線の奉天駅とは接続しておらず、街中に存在した。のちに「南奉天」に改称され、路線改良・経路変更とともに廃駅となっている。
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安奉軽便線
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当線については敷設途中の時点だけでなく提理部時代にも時刻表に掲載されたことがなく、その実態については不明の点が多い。社史や回顧録、調査書などの記録に頼るほかないのが現状である。 1905年2月11日に下馬塘まで開通した際は3往復で運転が開始されたが、工事資材の運搬のため輸送力増強をはかる目的で6往復に増発。そして9月には工事中の下馬塘から先にも列車を設定し、下馬塘-橋頭間が8往復、橋頭-孟家堡間に12往復が運転されるようになった。 全通後、1906年4月1日に一般旅客の取り扱いを開始した時点では5往復の列車が設定されていたが、8月に4往復になって以降減便が続き、南満州鉄道への引き継ぎ時には2往復であった。 運賃は当初区間制を用い、1区1円とした。全線は5区に分割されていたため、全線の運賃は5円であった。しかし後に対距離制となり、1マイルあたり3銭の賃率とされた。安奉軽便線の営業マイルは188マイルなので、全線運賃は5円64銭であった。等級については設定がなかった。
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安奉軽便線
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安奉軽便線は軌間762ミリの軽便鉄道であり、ここのみの専用車両が使われた。こちらは朝鮮で京釜線を軽便規格で敷設するために製造されて持ち込まれたものを、計画中止により転用したものを始めとし、それ以降は増備されて直接持ち込まれた。 小形(1 - 50, 78 - 82) 開業時に入線した車軸配置C形のタンク機関車で、1904年にアメリカのボールドウィン社で製造されたものである。55両投入されたが、そのうち1 - 25号の25両は朝鮮の京釜線の軽便規格での敷設中止によって持ち込まれたものである。タンクはサイドタンク、弁装置は旧式のスチーブンソン式弁装置であった。南満州鉄道にも引き継がれ、改軌まで使用された。 大形(51 - 77) 路線の延長に伴い増備された車軸配置C形のタンク機関車で、1905年にアメリカのボールドウィン社で製造されたものである。27両在籍したが、うち1両は組み立てられないままであった。機関車の重量を増加させて牽引力をかせぐため、運転室の後部に燃料庫が設けられるとともに、サイドタンクを機関車の前面にまで及ぶほど大きく造ってあった。弁装置は旧式のスチーブンソン式弁装置であった。小形と同じく南満州鉄道にも引き継がれ、1両が工場用の空気圧縮装置に転用されたため、残りの26両が改軌まで使用された。
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