地名としての芝浜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:37 UTC 版)
芝浜は現在の東京都港区芝4丁目の第一京浜の南側にあたる地域にあった海岸線である。江戸から品川へかけての海は「袖ヶ浦」の呼称があり、この芝付近の陸側を芝浜、海上を芝浦と呼んでいた。 徳川家康が入府した頃は、漁民は芝に7人、金杉に4人という寒漁村だった。南側は薩摩藩邸に接し、本芝浦と金杉浦へかけ江戸時代には「沙濱」とも呼ばれる干網場となっていたが、江戸湊で家康の御座船が座礁したのをこの漁民が助け、褒美として家康から日本中のどこでも魚を獲ってもよいという許しを得たという。ここで荷揚げされた魚は将軍家にも上納され、「御用撰残魚売捌所」の名称で御菜浦の1つにもなった。この東海道筋の市は江戸庶民から「雑魚場(ざこば)」の愛称で呼ばれていた。 明治になると鉄道建設の計画が持ち上がり、汐留から横浜へ至る計画路線上に当地も検討された。しかし西郷隆盛を中心とする鉄道建設の反対派が薩摩藩邸付近の建設調査を拒んだため、やむなく明治政府はここを避けて沖合いの海上に築堤を築いて線路を通すことになり、結果として浜や河岸が保存されるに至った。 戦後から昭和30年代後半にかけては漁場や荷揚げの機能は他へ移り、この付近も埋め立てが加速度的に進んで新芝運河につながる入り堀として残っていた。入り堀には漁船が係留されてここを跨ぐ国鉄(現在のJR)の架橋は「雑魚場架道橋」とも呼ばれていたが、1968年(昭和43年)頃に入り堀も廃された。入り堀跡は現在は港区立本芝公園に、JRの架道橋下は遊歩道になっている。 当地に当初から唯一残るのは本芝の産土神としてある御穂鹿島神社のみになってしまうが、1978年(昭和53年)に当地に住んでいた福岡仙松の流れを汲む芝浜囃子の復活から20周年を記念した「芝濱囃子の碑」が神社内に建てられ、碑銘を『笑点』の題字でも知られる橘右近が刻んだ。芝浜を演じる落語家をはじめ、失われゆく風景を描写するものとして、落語ファンを喜ばせた。 なお、2017年(平成29年)から芝浦付近では、JR東日本による山手線・京浜東北線の新駅建設工事が始まっている。2018年12月4日、新駅の名称が「高輪ゲートウェイ駅」に正式決定したが、本作にちなんだ「芝浜」も公募数で第3位につけた。 2022年(令和4年)4月に港区芝浦一丁目に新規開校する小学校の校名は、「港区立芝浜小学校」である。
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