戦後からシュタットバーン誕生まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 00:17 UTC 版)
「デュッセルドルフ・シュタットバーン」の記事における「戦後からシュタットバーン誕生まで」の解説
戦後のライン川鉄道会社(→ラインバーン)の歴史は、戦争で破壊された路線網の復旧から始まった。資材の不足や食糧難など幾多もの課題を抱えながらも、同事業者は労働者への支援を始めとした支援を続け、1948年にはクレーフェルト方面の路線で食堂車の運行が再開されるほどにまで復興を遂げた。 1950年代以降、デュッセルドルフ市内の路面電車(デュッセルドルフ市電(ドイツ語版))と共に近隣都市へ向かう長距離系統も発展を遂げ、同都市に本社を置くデュッセルドルフ車両製造(→デュワグ)製の連接車が多数導入された。また1949年以降はクレーフェルト方面に加えてデュイスブルク方面の系統でも食堂車の運行が始まり、採算面の問題で1962年にクレーフェルト方面での営業が終了して以降も軽食や飲料物の提供が続いた。その一方でモータリーゼーションの進展による自家用車への移行や人件費の増加により、1960年代以降ラインバーンは損失を抱えるようになり、公共交通機関の今後についての議論も盛んにおこなわれるようになった。 そんな中、激化する道路の混雑を避け、デュッセルドルフ市内中心部の路線を地下へ移設する計画が1968年にデュッセルドルフ市議会で採択され、1973年から工事が始まった。そして、1981年10月3日に最初の地下区間となるデュッセルドルフ北部のケネディダム(Kennedydamm) - オペラ座(Opernhaus)間(全長1.6 km)が営業運転を開始した。この路線はそれまでのラインバーンの路線と異なりプラットホームを高くしたため、開通に合わせて導入された新造車両や改造車両は地上・地下双方のプラットホームに対応するため折り畳みステップが搭載された。 その後も引き続き計画されていたトンネルの工事が続き、デュッセルドルフ創設700周年を迎えた1988年に市内中心部を通る地下区間が開通した。これに伴い、クレーフェルトやデュイスブルク方面の路線網についても高規格化が実施され、デュッセルドルフ・シュタットバーンの本格的な営業運転が始まった。また、クレーフェルト方面の食堂車についても1989年から営業運転を再開した。 戦後に大量導入が実施された連接車(2009年撮影) デュイスブルク方面へ向けて運行していた食堂車(2005年撮影) 地下区間開通に合わせて導入が開始されたB80D(1991年撮影) シュタットバーン化に合わせて復活したクレーフェルト方面への食堂車(2014年撮影)
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