基本思想
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「ヴァルター・オイケン」の記事における「基本思想」の解説
オイケンの研究の中心は、権力と不自由、そして貧困がどのように繋がっているのかという問題であった。この分析に基づいて、多大な可能性のある自由と、経済の合理的コントロールとを可能にする経済秩序(ドイツ語版)のための基本条件を決めることができた。彼は、国家の経済政策は、経済秩序の形成に志向するべきであり、経済プロセスの操作に乗りだすべきではないと確信していた。このような考えのため、オイケンはオルド自由主義の創設者であり、社会的市場経済の祖のひとりであると見られている。 1939年に出版された『国民経済の基礎(Grundlagen der Nationalökonomie)』で、オイケンは秩序の相互依存(ドイツ語版)という仮説を打ち立てた。それによると、市場経済--オイケンはよく「流通経済(Verkehrswirtschaft)」という概念を用いた--は、自由主義的な法治国家を生みだし、それに対して計画経済は、ナチスがドイツに導入し、ソ連やコメコンに加盟する東欧諸国でも実施されたものだが、このような経済は独裁制を生み出す。彼の死後1952年に、妻エディト・オイケン=エァデジーク(ドイツ語版)と助手カール・パウル・ヘンゼル(ドイツ語版)が出版した『経済政策の原則』も重要である。オイケンが考えた計画経済と市場経済における近代的な経済秩序の違いは、教科書のスタンダードになっている。しかし、オイケンにとってその違いは、しかし今日ではしばしば言われているような、国家の経済に対する積極性にあるのではない(国家比率(ドイツ語版)参照)。そうではなく、その違いは、経済権力の分布にある。オイケンにとって、計画経済とは、中央が巨大な権力を有し、個々人の力を最大限奪うものであるのだが、これと対極に位置するのは、自由放任主義的な「自由市場経済」ではない。計画経済の対極に位置するのは、むしろ誰も他人を経済的に統制する権力を持たない状態での完全競争であった。この2つの極のあいだで、別の新たな経済秩序がある。それは、個々の権力集団が、価格政策やロビー活動によって、他の市場参加者の経済的自由に干渉することができる経済秩序である。 自由放任主義経済は、オイケンの考察によれば、自動的に権力集団たちによる経済統制をもたらす。だからオイケンは、ORDO(ドイツ語版)年報の第一巻の序文で次のように説明している。 国家の活動が多いか少ないか--この問いは完全に過去のものになっている。重要なのは、量の問題ではなく、質の問題なのである。国家は、経済プロセスをコントロールしようと試みてはならないし、経済を自由放任させてもならない。{訳注:市場の}形式を国家が計画するのはよい。経済プロセスを計画・統制するのはダメだ。形式とプロセスとの違いを確認し、扱うこと、それが本質的に大切なことである。そうした場合にのみ、小さなマイノリティではなく全ての市民が、価格調整メカニズムを通じて経済を統制できるという目標を達成することができる。このことが可能な唯一の経済秩序は、「完全競争」という秩序である。全ての市場参加者に、マーケットのルールを変える可能性が受け入れられれば、この秩序は実現可能である。それゆえ国家は、適切な法的枠組みによって、市場形式、つまり経営が行われるうえでのルールを設定しなければならないのである —Walter Eucken
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基本思想
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「フェデリコ・フェラーリ」の記事における「基本思想」の解説
90年代終わりから、主な研究分野は「美術におけるイメージ」のテーマへと展開をみせている。とりわけ、博物館施設に関する研究 ( 著書『クリティカルスペース Lo spazio critico)、美術とイメージの生産システムに関する研究 ( 著書裸の王様 Il re è nudo) を進めている。 フランス人哲学者・作家・批評家のモーリス・ブランショとフランス人哲学者ジャン=リュック・ナンシーの考察から発して、グローバル化によって個々が細分化された社会とコミュニティ体験の間にあるソーシャルネットワークによる危ういつながりの問題をテーマとした研究を受け継いでいる。ジャン=リュック・ナンシーとのコラボレーションにより、2000年から2015年の間に共著3作品(『イメージの表皮 Le pelle delle immagini 』『作者のイコノグラフィー Iconografia dell'autore 』『終末のはて La fin des fins 』)を発表した。 著書『無秩序と震動 L'Anarca e Oscillazioni』のなかでは、その考察の超然とした繊細で優雅な要素が、ニヒリズムとポストモダンの仮面のとともに体内に深く根を下ろしているかのようだ。一方では、今日性からの亡命、基本となる法則の、あるいは完全なる反法則の(この測面は、明らかにイタリア人作家、詩人、翻訳家のヴィットリア・グェッリーニの影響が見られる)探求へと向い、もう一方では、張りつめた自伝的思考、孤立と超越の次元へと自らを押し進めている。この方法によって、このイタリア人思考家は、ドイツ人哲学者マルティン・ハイデガーとドイツ人思想家・文学者・自然科学者のエルンスト・ユンガーが取り組んだテーマを取り上げながら、新たな道を歩んでいる。
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基本思想
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古東氏の哲学思想は次の三点に纏めることができる。 1 存在の否定性が、存在の肯定性の論拠でもあることの解明 2 哲学の起源をめぐる新説の提示 3 瞬間論をベースにした新しい倫理論の構築 このような研究により、古東氏は存在論と倫理思想の研究において、優れた業績をあげてきた。特に、「神の死」以後、究極根拠(=そのタメに生まれて生きて死ぬことを明確に説明する究極原理)が失われ、混迷と不安を極める現代の思想状況に立ち向かい、その根本解決を求めて新しい仕方での存在論の構築に尽力してきた。具体的にいえば、従来あまりに否定的にしか考えられてこなかった「存在の否定的な性格」(無根拠・無目的・無理由,無価値など)が, じつは「存在の肯定性」を明らかにする積極的な論拠でもあるという逆説にみちた不思議な「反転の論理」をハイデガーやフッサールやサルトルやヘラクレイトスやデリダらの哲学、さらには仏教思想を手がかりにして明確にした。その新しい存在理論に基づき、従来の伝統的な哲学では探究不可能とされたり切り捨てられてきた諸問題、たとえば「語りえないもの」、「要約不可能な複雑系」などといった人間的な理知や意欲の裁量圏を超えた位相の重要性を剔抉し、鮮やかな解明をほどこした。とりわけ瞬間論の掘り下げは重要であった。従来、瞬間現象は儚く無常で一過的でとるに足りない時間のあり方であるとされてきた。しかし瞬間の生起こそが、リアル・タイム(現実的時間/即時即座)であり、リアルな生命の息吹であることを論証した。そしてそうした存在論や時間論の成果を集結させることを通じて、哲学史の起源をまったく新しい仕方で再考するとともに、新しい時代の来るべき倫理の可能性を確立しようと努めてきた。
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