中江種造とは? わかりやすく解説

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中江種造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 11:01 UTC 版)

中江 種造(なかえ たねぞう、1846年弘化3年) - 1931年昭和6年)3月27日)は、古河財閥を興す礎となり「鉱山王」とよばれた人物。

経歴

但馬国豊岡藩の下級武士の子として生まれ(父・河本筑右衛門元則、母・松子)、1858年(安政5年)、豊岡藩士・中江晨吉の養子となり、藩警護役のかたわら火砲技術や数学・測量を学ぶ。1868年(慶応4年)、戊辰戦争において京・桂御所の警備につき、砲術家・久世治作に従い理化学を学んだ。

明治新政府より「貨幣司」(造幣局の前身)勤務の命を受け、そこで身につけた金属分析技術をもって、貨幣司から鉱山司に転任となり、但馬国(現・兵庫県朝来市)の生野銀山の再興の職に就く。ここでフランスより来ていた外国人技師ジャン・フランシスク・コワニエらと協同し、最新の鉱山技術や製錬冶金技術を学ぶ。

その後、裸一貫で上京、1875年(明治8年)から1884年(同17年)まで、古河市兵衛の顧問技師として、栃木県・足尾銅山や新潟県・草倉銅山の経営に当たり、「古河鉱業」ひいては「古河財閥」(現在の古河グループ)を大きく成長させた。

1884年(明治17年)、顧問役をつとめた古河家を辞し、鉱業家として独立自営する。岡山県・国盛鉱山など各地の鉱山を買収、巨万の富を成し「鉱山王」とも呼ばれるようになる。鉱業のみならず山林業にも手を染め、500万本もの植林を行い「山林王」の名もほしいままにしたという。郷里・豊岡での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。

1911年(大正10年)、収益金の一部を町の奨学基金にという条件で、豊岡市上水道建設費を全額寄付した。奨学金制度は現在も続けられている。豊岡市上水道は1922年(大正11年)5月11日に同市城崎町の二見のわき水を水源として通水した。

1925年(大正14年)3月、町議会は中江種造の功績を称え、寿公園に銅像を建設した。 豊岡市上水道が通水した5月11日には、毎年寿公園にて水道祭りが行われている。

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