実吉安純
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実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元年3月20日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、日本の医学者、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍軍医中将。正二位 勲一等 功二級 子爵 医学博士。海軍軍医学校校長、海軍省医務局長、大本営海軍医務部長、東京慈恵会医院専門学校(現、東京慈恵会医科大学)校長、貴族院議員などを歴任した。慈恵医大の創設者である高木兼寛と共に、海軍の脚気撲滅に尽力したことで知られている。
- ^ a b 『官報』第6738号、明治38年12月14日。
- ^ 『官報』第775号、大正4年3月5日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、604頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 「故海軍軍医中将子爵実吉安純位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114111700
- ^ 『太政官日誌』明治9年 第70号
- ^ 『官報』第730号「賞勲叙任」1885年12月5日。
- ^ 『官報』第2326号「叙任及辞令」1891年4月6日。
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第6749号「叙任及辞令」1905年12月27日。
- ^ 『官報』第724号「叙任及辞令」1914年12月29日。
- ^ 『官報』第3755号「叙任及辞令」1925年3月2日。
- ^ 『官報』第1552号「叙任及辞令」1932年3月5日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
- ^ 『官報』第2229号「叙任及辞令」1890年12月2日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』第6426号「叙任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』「実吉安純」
- ^ 菅野賢治「日本軍政下の上海にユダヤ絶滅計画は存在したか(続) : 實吉敏郎・海軍大佐の未公開文書より」『京都ユダヤ思想』第10巻、京都ユダヤ思想学会、2019年6月、6-35頁、CRID 1390293865787146752、doi:10.50954/kyotojewishthought.10.0_6、ISSN 2186-2273。
- ^ a b 実吉安純『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
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