松前修広
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松前修広
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| 時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
| 生誕 | 慶応元年9月14日(1865年11月2日) |
| 死没 | 明治38年(1905年)3月26日 |
| 改名 | 勝千代(幼名)、兼広(初名)、修広 |
| 墓所 | 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
| 官位 | 正四位 |
| 主君 | 明治天皇 |
| 藩 | 蝦夷松前藩主→館藩知事 |
| 氏族 | 松前氏 |
| 父母 | 父:松前徳広、母:内藤正縄の娘・光子 |
| 兄弟 | 修広、敬広 |
| 妻 | 本多助実の娘 南部利剛の娘・貴子 |
| 子 | 勝広、興広、亮広、俊広、福広 |
松前 修広(まつまえ ながひろ)は、江戸時代後期の大名。松前氏(蠣崎氏)第19代[注釈 1]。松前藩(館藩)の第14代(最後)藩主[注釈 1]。のち子爵。
生涯
慶応元年(1865年)9月14日、第13代藩主・松前徳広の長男として江戸本所横網町別邸にて誕生した。幼名は勝千代。
明治元年(1868年)10月、榎本武揚ら旧幕府軍に敗れて父と共に最終的に津軽にまで敗走したが、11月に父・徳広が死去したため、明治2年(1869年)1月9日に家督を継ぐ。明治2年4月、松前藩は新政府に協力して藩兵を出し、4月17日に福山城(松前城)を奪回する。6月24日、版籍奉還により修広は知藩事となり、同時に藩名を舘藩と改称した。8月24日に従五位に叙位する。9月には戊辰戦争における軍功により、新政府から賞典禄2万石を与えられ、3万石の藩知事となった。なお、初名は兼広であったが、明治4年(1871年)7月8日に修広と改名する。7月14日、廃藩置県で知藩事を免職された。
明治10年(1877年)、証券印紙税則違反で逮捕され、裁判所より罰金を申し渡される[6]。
明治17年(1884年)7月、子爵となる。明治24年(1891年)1月、伯爵になることを願うものの、許可されなかった。明治38年(1905年)3月26日に死去。享年41。
栄典
家族
父母
妻
子女
- 松前勝広
- 松前興広
- 松前亮広
- 松前俊広
- 松前福広
注釈
- ^ a b 松前氏(蠣崎氏)については江戸初期の松前盛広の扱いが文献により異なるため代数に違いがみられる[1]。盛広は松前氏(蠣崎氏)当主としては第6代に数えられ[2][3]、盛広を含めると幕末の松前修広で第19代となる[2][3]。しかし、松前修広を第18世とするものもある[4]。また、盛広は松前藩初代藩主・慶広の子であるが、盛広は藩主には就かず、2代藩主には盛広の嫡男の公広が就いたとされ[5]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは藩主と認めていないが、『松前家記』などでは藩主として数えている[1]。ここでは国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説から松前氏(蠣崎氏)当主には含め[2]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などと同じく藩主には含めず松前修広で松前藩主14代[4]としている。
脚注
- ^ a b 「福島町の文化財」『福島町』。
- ^ a b c 「北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。
- ^ a b 福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」 (PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
- ^ a b 「松前修広」『コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。
- ^ 新藤 透「「新羅之記録」書誌解題稿」『情報メディア研究』第3巻第1号、情報メディア学会、2004年、1-10頁。
- ^ 華族の証券印紙税則違反『文明開化 4 裁判篇』宮武外骨(半狂堂、1926年)
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
| 日本の爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代 叙爵 |
子爵 (館)松前家初代 1884年 - 1905年 |
次代 松前勝広 |
固有名詞の分類
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