松前氏広とは? わかりやすく解説

松前氏広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 15:31 UTC 版)

 
松前氏広
時代 江戸時代前期
生誕 元和8年(1622年
死没 慶安元年8月25日1648年10月11日
改名 弁之助[1](幼名)、氏広
別名 主殿(通称)
戒名 氏広院殿直心宗性大居士
墓所 東京都文京区の諏訪山吉祥寺
北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺
官位 従五位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前公広:大炊御門資賢の娘
兄弟 兼広、松前広維室、氏広泰広、広諶、幸広、蠣崎清広室、新井田成政室、女子、蠣崎広林室
正室蠣崎友広の娘)
高広、松前広守室
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松前 氏広(まつまえ うじひろ)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第3代藩主[1]

生涯

元和8年(1622年)、第2代主・松前公広の次男として蝦夷福山館にて誕生[1]寛永3年(1626年)に兄・兼広が早世したために世継となる。 寛永15年(1638年)に徳川家光御目見した。 寛永18年(1641年)、父・公広の死去により跡を継いだ[1]。 寛永20年(1643年)にアイヌヘナウケ(シマコマキの首長、シマコマキは現島牧郡島牧村)を先頭にしてアイヌ民族が大規模な蜂起をしたが、一族の蠣崎利広らに鎮圧させている[1]

慶安元年(1648年)8月25日、27歳で江戸藩邸において死去[1]。跡を長男・高広が継いだ。

系譜

父母

正室

子女

  • 松前高広(長男)生母は清涼院(正室)
  • 松前広守室

脚注

  1. ^ a b c d e f 松前氏広」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E6%B0%8F%E5%BA%83コトバンクより2025年2月5日閲覧 




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