松前氏広
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 元和8年(1622年) |
死没 | 慶安元年8月25日(1648年10月11日) |
改名 | 弁之助[1](幼名)、氏広 |
別名 | 主殿(通称) |
戒名 | 氏広院殿直心宗性大居士 |
墓所 | 東京都文京区の諏訪山吉祥寺 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
官位 | 従五位下 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 蝦夷松前藩主 |
氏族 | 松前氏 |
父母 | 父:松前公広、母:大炊御門資賢の娘 |
兄弟 | 兼広、松前広維室、氏広、泰広、広諶、幸広、蠣崎清広室、新井田成政室、女子、蠣崎広林室 |
妻 | 正室:清(蠣崎友広の娘) |
子 | 高広、松前広守室 |
松前 氏広(まつまえ うじひろ)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第3代藩主[1]。
生涯
元和8年(1622年)、第2代藩主・松前公広の次男として蝦夷福山館にて誕生[1]。 寛永3年(1626年)に兄・兼広が早世したために世継となる。 寛永15年(1638年)に徳川家光に御目見した。 寛永18年(1641年)、父・公広の死去により跡を継いだ[1]。 寛永20年(1643年)にアイヌのヘナウケ(シマコマキの首長、シマコマキは現島牧郡島牧村)を先頭にしてアイヌ民族が大規模な蜂起をしたが、一族の蠣崎利広らに鎮圧させている[1]。
慶安元年(1648年)8月25日、27歳で江戸藩邸において死去[1]。跡を長男・高広が継いだ。
系譜
父母
- 松前公広(父)
- 大炊御門資賢の娘(母)
正室
- 清、清涼院 ー 蠣崎友広の娘
子女
- 松前高広(長男)生母は清涼院(正室)
- 松前広守室
脚注
固有名詞の分類
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