横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場」の解説
いったん頓挫した江戸近くでの本格的な製鉄所建設計画であるが、元治元年(1864年)に入って動き出した。まず元治元年3月22日(1864年4月27日)、フランスの新しい公使としてレオン・ロッシュが着任した。ロッシュはイギリスが幕府から距離を置く立場を取るようになる中、逆に幕府へ接近する姿勢を見せた。また同年8月には小栗忠順が幕府の勘定奉行に再任され、同じ頃、フランス語が堪能である栗本鋤雲が目付に抜擢された。 当時幕府が諸外国から購入した艦船は中古船が多く、幕府はその修復に頭を悩ませていた。そこでフランス語が堪能な栗本に白羽の矢が立てられ、幕府が所有していた蒸気船翔鶴丸の修復についてフランスに依頼するように命じられた。栗本はロッシュと交渉したところ、日本側と接近する好機会と捉えたロッシュは、横浜港に停泊していたフランス艦隊に赴き、艦隊の司令官ジョレスに翔鶴丸修理の了承を取り付け、フランスの手によって修復作業が行われることになった。その結果2か月足らずで完璧な修理が行われ、勘定奉行の小栗らがフランスの技術を導入して製鉄所の建設を進めるきっかけとなった。 元治元年11月3日(1864年12月1日)、小栗は栗本とともにロッシュと面会した。小栗は日本独自の造船所建設への意欲を述べ、造船所建設に当たり技術指導を行える人材の紹介を依頼した。ロッシュはフランス艦隊司令官のジョレスと相談した上、翌日小栗に対し、フランスにあるような本格的な造船所や修船場の建設を勧め、本格的な造船所や修船場を建設するのならば最初に良い技師、機械を精選することが重要であることを指摘し、フランスがそのための協力を惜しまないこと、これまでナポレオン3世の命で上海にて5艘の船を建造したレオンス・ヴェルニーという造船技師が任務を終えて帰国するところなので、日本側からの正式要請があれば日本へ来るように斡旋することを回答した。ロッシュの提案に対する幕府の回答はすばやかった。元治元年11月10日(1864年12月8日)、ロッシュに対して製鉄所建設と船舶建造の経験を持つフランス士官の派遣を正式に依頼する文章を交付した。 元治元年11月26日(1864年12月24日)、フランス艦隊司令官ジョレスらフランス海軍の関係者、ロッシュ、小栗、栗本らは造船所の建設候補地の見分を行った。まず幕府が第一の候補地としていた長浦へ向かい、測量を実施したところ湾内に浅瀬があって大型艦船の航行に問題があることが判明した。続いて隣の横須賀へ向かい、湾内を測量してみたところ水深が深く、また地形的な立地条件がフランス最大の軍港の一つであったトゥーロンに類似していることから、横須賀を建設候補地とすることとした。そして元治元年12月2日(1864年12月30日)から翌元治2年(1865年)正月にかけて、幕府独自に横須賀の測量を実施した。 元治元年12月8日(1865年1月5日)、ロッシュは老中諏訪忠誠の屋敷で、諏訪と老中阿部正外、老中水野忠精の3名の老中と会見した。ロッシュは幕府の造船所建設計画に対し、多額の費用と長い期間がかかることを認めた上で、日本を強国にするための基礎となるものなので、必ず建設すべきであるとの意見を述べた。すると老中らからは必要性については十分に認識しているものの、破綻状態に近かった幕府の財政事情をロッシュに説明し、困難さを訴えた。当時の厳しい財政事情もあって造船所建設には反対意見も出されていたが、結局小栗らが押し切った。またこの時の会談で、ロッシュから先日推薦した造船技師ヴェルニーが近日中に来日することが伝えられ、ヴェルニーが来日したら幕府が所有する機械類について確認してもらい、足りない機械類はフランスで購入することを提案し、了承を得た。 ヴェルニーは元治2年(1865年)1月、上海から来日した。ヴェルニーは当時27歳の海軍の技術士官であった。彼はまず幕府が所有している機械類の確認と、造船所建設予定地である横須賀を視察した。ヴェルニーは横須賀を造船所建設の好適地と認め、幕府から依頼された造船所建設事業を引き受ける決心を固め、横須賀製鉄所建設の原案を作成した。建設原案の中で横須賀について、周囲が丘に囲まれた広くて波が静かであり、かつ水深が深く、船舶を泊めるに適した湾である上に、地質が粘土質であるため、山を削って海を埋め立てて、ドックや工場を建設するのに都合が良い場所であるとした上で、2基のドライドックの建設などを提案した。このヴェルニーの提案はほぼ認められ、元治2年1月29日(1865年2月25日)、幕府はロッシュに『製鉄所約定書』を交付し、フランス側と正式に横須賀製鉄所の建設に関する契約を取り交わした。そして元治2年2月4日(1865年3月1日)、ロッシュから幕府側に横須賀製鉄所の土木工事計画図が示された。計画図にはヴェルニーが提案した通り、2基のドライドックが計画されていた。ロッシュの示した土木工事計画図に基づき、元治2年3月12日(1865年4月7日)、横須賀製鉄所の建設用地約23.76ヘクタールが正式決定された。 元治元年(1865年)2月、ヴェルニーは製鉄所で使用する機械の購入や、製鉄所建設を担う技師を募集するためにいったんフランスへ帰国した。製鉄所建設の責任者であるヴェルニーの帰国中、アメリカが巻き返しを図った。慶応元年(1865年)8月、アメリカ公使館はフランスが推薦するドライドックではなく、浮きドックの採用を勧めてきたのである。結局万延元年遣米使節がアメリカで浮きドックを見学した際などで得られた、「浮きドックは耐用年数が短い」と言う知見を基に、アメリカ側の提案を拒絶することになった。 しかしドックの建設計画が進められていく中でヴェルニーにも迷いが生じた。ヴェルニーを悩ませたのはドックの耐震性の問題であった。ヴェルニーと幕府側はドックの耐震性の問題について協議していた。ヴェルニーは浮きドックは耐用年数や維持管理費用のことを考えると望ましくないとしたものの、建設費用がドライドックの約三分の二であり、しかも耐震性の問題を考慮すると必ずしも不利とは言えないのではないかと考えたのである。ヴェルニーはフランス海軍省にドック建設についての技術的な検討を依頼した。結局、当初の建設計画では浅瀬を埋め立てて建設する予定であったものを、丘を崩し、その上で更に地面を掘り込んで建設する計画に改められた。 ところで幕府側に浮きドック建設を勧めたアメリカ側はすぐには引き下がらなかった。その後も横須賀製鉄所のドライドック建設には長い日時を要するとして、製鉄所のドライドック建設と並行して近隣に別に浮きドックを設ける提案を行ったり、更には横須賀製鉄所近くにアメリカ商船の修理用のドライドック建設をほのめかしたりした。結局アメリカ側の要求を幕府側は最後まで認めることはなく、ヴェルニーを責任者とするフランスの支援を受けてドライドックが建設された。
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