横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場とは? わかりやすく解説

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横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)

横須賀海軍施設ドック」の記事における「横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場」の解説

いったん頓挫した江戸近くでの本格的な製鉄所建設計画であるが、元治元年1864年)に入って動き出した。まず元治元年3月22日1864年4月27日)、フランス新し公使としてレオン・ロッシュ着任したロッシュイギリス幕府から距離を置く立場を取るようになる中、逆に幕府接近する姿勢見せた。また同年8月には小栗忠順幕府勘定奉行再任され、同じ頃、フランス語堪能である栗本鋤雲目付抜擢された。 当時幕府諸外国から購入した艦船中古船多く幕府はその修復頭を悩ませていた。そこでフランス語堪能栗本白羽の矢立てられ幕府所有していた蒸気船翔鶴丸修復についてフランス依頼するように命じられた。栗本ロッシュ交渉したところ、日本側と接近する好機会捉えたロッシュは、横浜港停泊していたフランス艦隊に赴き、艦隊司令官ジョレス翔鶴丸修理了承取り付けフランスの手によって修復作業が行われることになったその結果2か月足らず完璧な修理が行われ、勘定奉行小栗らがフランス技術導入して製鉄所の建設進めきっかけとなった元治元年11月3日1864年12月1日)、小栗栗本とともにロッシュ面会した小栗日本独自造船所建設への意欲述べ造船所建設に当たり技術指導行え人材紹介依頼したロッシュフランス艦隊司令官ジョレス相談した上、翌日小栗対しフランスあるよう本格的な造船所修船場の建設勧め本格的な造船所修船場を建設するのならば最初に良い技師機械精選することが重要であることを指摘しフランスがそのための協力惜しまないこと、これまでナポレオン3世の命で上海にて5艘の船を建造したレオンス・ヴェルニーという造船技師任務終えて帰国するところなので、日本側からの正式要請があれば日本へ来るように斡旋することを回答したロッシュ提案対す幕府回答はすばやかった。元治元年11月10日1864年12月8日)、ロッシュに対して製鉄所建設船舶建造経験を持つフランス士官派遣正式に依頼する文章交付した元治元年11月26日1864年12月24日)、フランス艦隊司令官ジョレスフランス海軍関係者ロッシュ小栗栗本らは造船所建設候補地見分行った。まず幕府第一候補地としていた長浦向かい測量実施したところ湾内浅瀬があって大型艦船の航行問題があることが判明した続いて隣の横須賀向かい湾内測量してみたところ水深深く、また地形的立地条件フランス最大軍港一つであったトゥーロン類似していることから、横須賀建設候補地とすることとした。そして元治元年12月2日1864年12月30日)から翌元治2年1865年正月にかけて、幕府独自に横須賀測量実施した元治元年12月8日1865年1月5日)、ロッシュ老中諏訪忠誠屋敷で、諏訪老中阿部正外老中水野忠精の3名の老中会見したロッシュ幕府造船所建設計画対し多額の費用長い期間がかかることを認めた上で日本強国にするための基礎となるものなので、必ず建設すべきであるとの意見述べた。すると老中らからは必要性については十分に認識しているものの、破綻状態に近かった幕府財政事情ロッシュ説明し困難さ訴えた当時厳し財政事情もあって造船所建設には反対意見出されていたが、結局小栗らが押し切った。またこの時の会談で、ロッシュから先日推薦した造船技師ヴェルニーが近日中来日することが伝えられ、ヴェルニーが来日した幕府所有する機械類について確認してもらい、足りない機械類フランスで購入することを提案し了承得た。 ヴェルニーは元治2年1865年1月上海から来日した。ヴェルニーは当時27歳海軍技術士官であった。彼はまず幕府所有している機械類確認と、造船所建設予定地である横須賀視察した。ヴェルニーは横須賀造船所建設好適地と認め幕府から依頼され造船所建設事業引き受け決心固め横須賀製鉄所建設原案作成した建設原案の中で横須賀について、周囲が丘に囲まれ広くて波が静かであり、か水深深く船舶泊める適した湾である上に、地質粘土質であるため、山を削って海を埋め立てて、ドック工場建設するのに都合が良い場所であるとした上で、2基のドライドック建設などを提案した。このヴェルニーの提案はほぼ認められ元治2年1月29日1865年2月25日)、幕府ロッシュに『製鉄所約定書』を交付しフランス側正式に横須賀製鉄所建設に関する契約取り交わした。そして元治2年2月4日1865年3月1日)、ロッシュから幕府側に横須賀製鉄所土木工事計画図が示された。計画図にはヴェルニーが提案した通り、2基のドライドック計画されていた。ロッシュ示した土木工事計画に基づき元治2年3月12日1865年4月7日)、横須賀製鉄所建設用地約23.76ヘクタール正式決定された。 元治元年1865年2月、ヴェルニーは製鉄所使用する機械購入や、製鉄所建設を担う技師募集するためにいったんフランスへ帰国した製鉄所建設責任者であるヴェルニーの帰国中、アメリカ巻き返し図った慶応元年1865年8月アメリカ公使館フランス推薦するドライドックではなく浮きドック採用勧めてきたのである結局万延元年遣米使節アメリカで浮きドック見学した際などで得られた、「浮きドック耐用年数が短い」と言う知見を基に、アメリカ側提案拒絶することになった。 しかしドック建設計画進められていく中でヴェルニーにも迷い生じた。ヴェルニーを悩ませたのはドック耐震性の問題であった。ヴェルニーと幕府側はドック耐震性の問題について協議していた。ヴェルニーは浮きドック耐用年数維持管理費用のことを考えると望ましくないしたものの、建設費用ドライドックの約三分の二であり、しかも耐震性の問題考慮すると必ずしも不利とは言えないのではないか考えたのである。ヴェルニーはフランス海軍省にドック建設についての技術的な検討依頼した結局当初の建設計画では浅瀬埋め立て建設する予定であったものを、丘を崩しその上で更に地面掘り込んで建設する計画改められた。 ところで幕府側に浮きドック建設勧めたアメリカ側はすぐには引き下がらなかった。その後横須賀製鉄所ドライドック建設には長い日時要するとして、製鉄所ドライドック建設並行して近隣別に浮きドック設け提案行ったり、更には横須賀製鉄所近くアメリカ商船修理用のドライドック建設ほのめかしたりした。結局アメリカ側要求幕府側は最後まで認めことはなく、ヴェルニーを責任者とするフランスの支援受けてドライドック建設された。

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