万延元年遣米使節とは? わかりやすく解説

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万延元年遣米使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 00:57 UTC 版)

万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、江戸幕府日米修好通商条約批准書交換のために1860年に派遣した77名から成る使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。


  1. ^ a b http://www.examiner.com/article/city-museum-unveils-samurai-new-york
  2. ^ New York Times article from June 16, 1860
  3. ^ “【世界を驚かせた日本人】立石斧次郎 米国女性を熱狂させた幕末の侍アイドル”. zakzak (産経デジタル). (2014年6月18日). http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140618/dms1406181140004.htm 2017年10月1日閲覧。 
  4. ^ 五味安郎右衛門MUH vol.27 ニュースメディア甲府 2002.10.1
  5. ^ 「大坂町奉行並松本寿大夫救民手宛米一件」の社会事業史的意義古川隆司、追手門学院大学社会学部紀要 2015年3月30日,第9号


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万延元年遣米使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 08:31 UTC 版)

新見正興」の記事における「万延元年遣米使節」の解説

万延元年1860年)、新見日米修好通商条約批准書交換する重責担った万延元年遣米使節の正使として、副使淡路守(範正)、監察小栗豊後守(忠順)らとともに渡米した1月22日横浜アメリカ軍艦「ポーハタン」に乗り込みハワイ王国ホノルル経由して太平洋横断サンフランシスコにいったん寄港の後、一路パナマへ向かいパナマ地峡鉄道大西洋抜け、そこから今度アメリカ軍艦「ロアノーク英語版)」に乗って北上首都ワシントンD.C.到着したのは万延元年3月25日1860年5月15日)のことだった。 ワシントンでは大統領ジェームズ・ブキャナン謁見し、4月3日5月23日)に国務長官ルイス・カス批准書交換一行その後フィラデルフィアニューヨークで熱烈な歓迎受けた5月12日6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し西回り大西洋からインド洋入り9月27日11月9日)に横浜帰着した新見はこの功績により300加増され、10月には外国奉行専任となった

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万延元年遣米使節

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村垣範正」の記事における「万延元年遣米使節」の解説

「万延元年遣米使節」を参照 安政7年1860年日米修好通商条約批准書交換のため幕府アメリカ派遣する使節団副使正使新見正興目付小栗忠順)を拝し正月米国軍ポーハタン号にて太平洋航路出港途中ハワイ寄港し3月サンフランシスコ到着ワシントンD.C.向かい4月3日批准書交換アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナン会見した帰路ナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由して帰国9月27日江戸へ到着したこの間克明な航海日誌(『淡路守公務日記』、『遣米使節日記』とも)を残した帰国後、功績により300石を加増され、500石取となった同年11月プロシアプロイセン)の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクとの間の日普修好通商条約締結にあたり交渉であった堀利煕が突然謎の自刃遂げたため、その交渉の任を引き継ぎ翌月日本全権として調印臨んだ文久元年1861年ロシア艦ポサドニック号が対馬崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチ交渉し退去求めた。また箱館港砲台建設促進した文久3年1863年6月には作事奉行転じ、翌元治元年1864年)には西の丸留守居若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年1868年)には病のためと称して隠居、淡叟と号した明治維新後は官職就かず明治13年1880年)に東京にて没した享年68。墓は谷中墓地東京都台東区)に建てられた。 遣米使節護衛として咸臨丸乗船した軍艦奉行木村喜毅舟)は、垣を「機敏にして吏務練達す」と評した一方福地源一郎痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。

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万延元年遣米使節

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日米関係」の記事における「万延元年遣米使節」の解説

詳細は「万延元年遣米使節」を参照 7年後江戸幕府日本西洋流の航海および造船技術習得したことを世界に示すためにアメリカ向けて咸臨丸」を派遣した1860年1月19日、「咸臨丸」はサンフランシスコ向かい浦賀水道出発した使節団中には船長勝海舟中濱万次郎福澤諭吉などが含まれていた。使節団アメリカの船に乗りパナマ経由して首都ワシントン向かった使節団目標は「今まで初めての日本大使アメリカ派遣すること」、「両国政府間で新し修好通商条約批准すること」にあった使節団また、ペリー締結した条約条項のうち、アメリカ有利、日本不利の不平等条約条項修正しようとしたが、失敗終わった最初駐日アメリカ合衆国大使タウンゼント・ハリス務めた。[要出典]二代目大使はウィリアム・ヘンリー・スワードの政治的盟友親し友人であったロバート・H・プルインで、1862年から1865年まで務めた。彼は1842年から1852年までと1854年オールバニ郡からニューヨーク州議会議員選出されホイッグ党党員であり、 1850年から1854年まで州議会議長務めた当時国長官であったスワード個人的な求めにより、エイブラハム・リンカーン大統領プルイン駐日大使に任命しプルインはその職を1865年まで務めその後ニューヨーク州へ戻ったプルイン成し遂げた最も優れた業績一つ下関戦争後の交渉仲立ちしたことが挙げられるプルイン将軍との取引で高い成功収めた考えられている。他にも、座礁した船に乗っていた日本人船員本国送還することに関する合意にも署名した

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万延元年遣米使節

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日本とパナマの関係」の記事における「万延元年遣米使節」の解説

日本人最初にパナマ交流持ったのは、日米修好通商条約批准書交換のため、江戸幕府により米国ワシントンD.C.に向かわされていた77からなる使節団「万延元年遣米使節」の人々である。彼らは米国軍ポーハタン号にて太平洋渡ってサンフランシスコ一時停泊した後、パナマ訪問当時まだパナマ運河開通していなかった事から大西洋側のアスピンウォール(現在のコロン)まではパナマ地峡鉄道特別に用意され汽車移動し大西洋出てワシントンD.C.ニューヨーク目指した。汽車乗った際、副使務めていた村垣範正は、「やがて蒸気盛んになれば、今や走り出んとかねて目もくるめくやうに聞きしかば、いかがあらんと舟とは変わり案じける内、凄まじき車の音して走り出たり」と記している。 なお、当時パナマ大コロンビアの一地域であり、独立国ではなかった。

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