通貨の交換比率の交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 15:47 UTC 版)
「万延元年遣米使節」の記事における「通貨の交換比率の交渉」の解説
この使節団の隠れた目的の一つが、通貨交換比率の交渉であった。 日本においては、銀はもともと丁銀や豆板銀などの、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣として流通していたが、江戸後期に発行された一分銀は額面が記載された計数貨幣であった。 その貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、1/4両に相当する。しかし、天保一分銀の量目は2.3匁に過ぎず、秤量貨幣である天保丁銀の含有銀量を換算した3.9匁にはるかに及ばず、従って、貴金属としての価値は低い。しかしながら、一分銀の発行高は丁銀をはるかに上回るものとなり、天保以降では銀貨流通の主流となっていた。 日米和親条約の締結により、日本貨幣と西洋貨幣との交換比率が定める必要が生じた。幕府は日本における本位貨幣である金を基準にしての交換率設定を主張したが、ハリスは当時の国際決済の標準通貨がメキシコドル銀貨であったため、銀を基準にすることを主張した。結局、幕府は米国側に押し切られ、その銀含有量を基に1ドル=3分の交換比率を承諾することになる。 このことは、相対的に日本の金が安くなったことを意味する。金の含有量で比較すると、天保小判5両が米国20ドル金貨(Double Eagle)に等しい。このため、1ドル(メキシコ銀貨)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで、莫大な利益を上げることができた。結果、大量の金が海外へ流出することになった。 これを防止する方法として、一分銀が計数貨幣であり国際決済には不適切であることを諸外国に認めてもらう方法がある。小栗は渡米中にこの交渉を行った。小栗は一分銀およびそれと同じ額面を持つ一分金をフィラデルフィアの造幣局で分析させ、一分銀の35.6セントに対し、一分金は89セントに相当することを確認させた。この結果を基に、「洋銀と一分銀の交換は禁止し、90セント=1分として一分金との交換を行う」ことを主張した。米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至らなかった。しかしながら、この交渉の過程で、小栗はタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げたと言われている。 結局、金銀交換比率を諸外国並とするため、幕府は小栗の帰国を待つことなく、天保小判の1/3弱の金含有量の万延小判を新たに発行することになるが、結果として大幅なインフレを招くこととなった。 「幕末の通貨問題」も参照
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