天保一分銀
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天保一分銀 庄内一分銀 保字金(天保金)の発行後3箇月半後、保字銀(天保銀)および一分の額面をもつ計数銀貨が同日の天保8年11月7日(1837年12月4日)から鋳造が始まり、同12月18日(1838年1月13日)から通用開始された。これが天保一分銀(てんぽういちぶぎん)であり、後の安政一分銀発行後は古一分銀(こいちぶぎん)とも呼ばれた。 純銀に近いものの一両あたりの量目は9.2匁に過ぎず、保字銀の含有銀量を一両あたりに換算した15.6匁にはるかに及ばなかった。これは、幕府の財政難を埋め合わせるための出目(改鋳利益)獲得が目的の名目貨幣(定位貨幣)であった。天保一分銀、および安政一分銀共に発行高は同時期の丁銀をはるかに上回るものとなり、これ以降計数銀貨が流通の主流となった。一分銀発行以降、市場における両単位の貨幣の流通の多くを一分銀が占めたことから、後の開港後における小判流出の元凶となった。これは文政南鐐二朱銀2枚分の量目4.0匁と比較して42.5%の大幅な減量であり、文政南鐐一朱銀4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた花降銀(はなふりぎん)を使用し、勘定所役人らは表面に「花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に桜花を20個配置することになった。この桜花のデザインから、「桜」が一分銀の愛称となったという。 裏面の「是」字の八画および九画が交差した交叉是のもので、側面の仕上げが滑らかで桜の花弁が打たれているものが天保一分銀である事が多いが、厳密には周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断することが定着している。 公儀灰吹銀および回収された旧銀から一分銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は天保一分銀では当初鋳造高の2.5%と設定され、天保14年(1843年)からは1.6%に減額された。また天保14年8月17日(1843年9月10日)に水野忠邦は金座および銀座に金銀の一時吹止めを命じ、一分銀も一時吹止めとなった。鋳造開始から吹止めまでの期間の鋳造高は、『銀座掛御用留』の記録では15,153,802両であり、このとき吹替えにより幕府が得た出目は2,430,000両としている。この一時吹止めは天保の改革の一環として水野忠邦による新たな幣制改革の構想によるものとされるが、上地令の公布を機に各方から猛烈な反発に逢い、老中の罷免に伴い約一年後の弘化元年9月13日(1844年10月24日)に天保金銀の鋳造が再開された。 また、表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年5月20日(1868年7月9日)から同年6月15日(8月3日)までの期間に鶴岡藩(庄内藩)において、良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、鶴岡および酒田において極印を打ったものとされ、庄内一分銀(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。
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