開国に伴う通貨交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/10 14:45 UTC 版)
「幕末の通貨問題」の記事における「開国に伴う通貨交渉」の解説
日米和親条約の締結後、1854年6月12日(安政元年5月17日)より、下田了仙寺にて日本貨幣と西洋貨幣との交換比率の交渉が行われた。 幕府側は、日本の本位貨幣は金であり一分銀は極印により通用する定位貨幣であるとして、金の価格を基に1ドル=1分を主張した。その理由は以下の通りであった。 8.8匁の量目の20ドル金貨は1匁当り銀19匁すなわち1枚あたり、銀167.2匁と評価され、1ドル当たりでは銀8.36匁である。 また1ドル銀貨すなわち洋銀は地金と見做されるため純銀量6匁2分(23.2グラム)に対し二六双替である通用銀(天保丁銀)16匁と評価される。これは1両の約1/4であるから1ドル=1分である。 一分銀は名目貨幣であり、金貨4ドル分の金を含有する本位貨幣である小判の兌換券に相当するものである。 これに対して、米国側は金貨、銀貨はそれぞれ同種同量をもって交換すべきあると主張した。結局、この話し合いは決着がつかず、交渉は後日に委ねられた。 1856年10月7日(安政3年9月9日)に下田御用所において米国総領事のハリスとの協議が行われ、ハリスは市中に流通している天保一分銀は2.3匁(8.62グラム)であり、1ドル銀貨は26.73グラムであるから100ドルは一分銀311枚に相当する。従って1ドル銀貨の約1/3の量目(質量)である一分銀3枚を持って1ドルに換えるべきであると主張した。 結局、実質価値に満たない名目貨幣としての銀貨は国際的には通用しないとハリスに押し切られ、同種同量交換の1ドル=3分の交換比率を承諾することになる。
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