開国後から日清戦争までとは? わかりやすく解説

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開国後から日清戦争まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:46 UTC 版)

韓国併合」の記事における「開国後から日清戦争まで」の解説

開国後李氏朝鮮では、衛正斥邪欧米諸国夷狄視して排斥し鎖国維持する)を是とする高宗実父興宣大院君朝鮮修信使として日本訪問し明治維新感化され青年官僚金玉均洪英植朴泳孝ら)(金玉均洪英植朴泳孝ら)たちの開化派清国への臣属主張する高宗の妃閔妃擁する閔氏一族閔泳翊ら)の事大党による政争続いていた。 1881年衛正斥邪派興宣大院君庶長子李載先擁して高宗廃して閔氏一族追放企む失敗し李載先を含む30名が処刑された。翌年興宣大院君政権奪取目論クーデター起こすが、金允植魚允中要請受けて清国から派遣され丁汝昌馬建忠によって鎮圧された。大院君中国天津幽閉され大院君派の官吏儒学者凌遅刑処され壊滅した壬午軍乱)。10月清国朝鮮中朝商民水陸貿易章程を結び朝鮮属国化を進めると、馬建常メレンドルフ政治顧問として朝鮮政府送り込んだ1884年開化派によるクーデター起こったが、清国軍事介入により鎮圧され開化派失脚した甲申政変)。これらの政変により、清国朝鮮への影響力強め閔氏一族後見となって政権掌握させた。清国日本天津条約を結び、朝鮮出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。 1885年高宗秘密裏ロシア帝国支援要請していることが露見する露朝密約事件)と、清国影響力維持するため大院君朝鮮帰国させる。帰国した大院君高宗廃して嫡孫永宣君王位擁立して自らは摂政に収まることを画策し全琫準通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月東学党蜂起して全羅道占領して閔妃政権退陣求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権自力での反乱鎮圧諦めて清国救援依頼する李鴻章は2,000規模陸軍派兵したが、日本天津条約取り決めに従って邦人保護のために8,000規模混成旅団派兵した反乱の鎮圧後、朝鮮両国に対して撤兵要求する双方から拒否された。日本朝鮮独立国かの再確認行い朝鮮側から「自主国である」との回答受けたことから、自主国ある朝鮮に清国軍が駐留することは清国朝鮮属国として扱おうとする不当な動きとして批判し日清間の緊張高まったまた、日本朝鮮政府内政改革案を提示したが、閔妃一族改革案よりも撤兵求め朝鮮王朝による自主的な改革実施する返答しため、閔氏一族との対立深まり日本政府興宣大院君擁した新政府樹立目論むうになる1894年7月23日大鳥圭介朝鮮公使大島義昌陸軍少将師団率いて漢城に入ることを指示大鳥護衛兵率いて朝鮮王宮景福宮向かった景福宮到着する朝鮮軍からの発砲受けたが、日本軍の反撃を受けると朝鮮兵は相次いで逃走し朝鮮軍1時間ほどで霧散した。 大鳥公使本国送った報告次の通りである。 電信訳文 廿七年七月廿三日午前八時十分発午後三時七分東京 陸奥大臣 京城 大公使 朝鮮政府は本使の電信述べた第二要求対し甚だ不満足な回答為せを以て不得已(やむをえず王宮を囲むの断然たる處置執る至り本使は七月廿三日早朝此手段を施し朝鮮兵は日本兵に向て発砲し双方互に砲撃せり また、歩兵第32連隊第1大隊長名1903年作成された「韓国京城駐剳歴史」には、この戦闘の様子詳しく書かれている。 我兵は王城内に入らんとす。分ち二隊為し橋本少佐一隊を率ひて正門なる光化門に当り少佐後門なる彰化門に向ひたり。而して正門一隊は先づ門前に構へたる親軍壮衛営に駐屯せし韓兵を吶喊声の下に逐ひ散らし勢に乗じて門壁を摩し銃床を乱敲しつゝ連り吶喊すれば後門一隊も之に応じて鯨波作り或は空砲発して犇き渡れり。 戦闘終了後朝鮮王朝臣下多く逃走し国王高宗身を潜めていたところを日本軍保護された。大鳥宮廷参内して高宗から「(国王である自分は)日本改革案に賛同していたが、袁世凱意向受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し改革実現するために興宣大院君国政改革全権委任すること提案同意した同日のうちに大院君景福宮入って復権果たしたが、老齢興宣大院君時勢疎く政務渋滞見られたため、杉村濬京城公使館書記官新政権首相たる領議政役職金弘集推挙すると、大院君はこれに従った朝鮮政府日本政府に対して牙山駐屯する清軍を撤退させることを要請行ったが、朝鮮王朝清国報復怯えて清国との絶縁などの日本の要請拒み続けており、大鳥圭介強硬な態度屈して日本の要請応じたが、その内容大鳥落胆させるものであったしかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍攻撃する名分を得ることができたため、日本戦争開戦準備始める。 1894年7月25日朝鮮豊島沖で日清間の武力衝突豊島沖海戦)を契機日清戦争勃発し勝利した日本清国下関条約締結し朝鮮自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国影響排することに成功した

※この「開国後から日清戦争まで」の解説は、「韓国併合」の解説の一部です。
「開国後から日清戦争まで」を含む「韓国併合」の記事については、「韓国併合」の概要を参照ください。

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