開戦準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:27 UTC 版)
「スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)」の記事における「開戦準備」の解説
続いてスウェーデンは、ポメラニアに侵攻軍を集め始めた。ベルリンには9月以降、これらの部隊の動きが次々に報じられた。例えば代官ヨハン・ゲオルク2世は9月の初め、月末までにスウェーデン軍20,000名がポンメルンに展開するであろうと通告したスウェーデン公使、ベルンハルト・クリスティアン・ヴァンゲリーン(ドイツ語版)との会話を選帝侯に報告している。10月の後半、スウェーデン軍の将帥、カール・グスタフ・ヴランゲル(英語版)のヴォルガストへの到着が報じられると、スウェーデン軍の襲来が差し迫っているという報告は濃密になった。 アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世はこれら、部隊の移動に関する報告にはっきりと不安を覚え、10月にブランデンブルク軍のミクランダー(ドイツ語版)大佐を通じて何度もスウェーデン軍総司令官、カール・グスタフ・ヴランゲル元帥に進軍の意図を確認させている。しかしヴランゲル元帥は回答せず、アンハルト=デッサウ侯から届いたさらなる協議の要請を断った。11月中旬、代官ヨハン・ゲオルク2世は差し迫ったスウェーデン軍の襲来について確信を得たが、ベルリンではその詳しい原因や動機が判然としないままであった。 選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘム自身はベルリンから届く不穏な知らせにも拘わらず、ブランデンブルク辺境伯領にスウェーデン軍の襲来が迫っているとは思わなかった。このことは、辺境伯領の代官に宛てた1674年10月31日付の書簡、特に下記の内容からも確認できる。 「私はスウェーデン軍により良い意志があると信じ、彼らが卑劣な行動に走るとは思わない。」- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 1674年12月、ウッカーマルク(英語版)へ進軍する前にスウェーデン領ポメラニアへ集結したスウェーデンの侵攻軍の兵力は、テアートルム・エウロペーウム(英語版)に記された同時代の記述に拠れば下記の通りである。 歩兵は11個連隊、総勢7,620名。 騎兵は8個連隊、総勢6,080名。 砲兵は様々な口径の大砲、合計15門を携行。 ブランデンブルク辺境伯領の防備は1674年8月23日、主力がアルザスへ出征して以降は不足していた。選帝侯はわずかな兵力を残すのみで、そのほとんどは年齢を重ねた者や傷痍軍人であった。これらの有力とは言えない部隊は、守備隊として各地の要塞に配置されていた。代官が動員できた、これら守備隊の総兵力は1674年8月末の時点でおよそ3,000名に過ぎなかったのである。この時、首都ベルリンには年齢によって従軍能力が削がれたために残された500名の古参兵と、新たに募集した300名の新兵がいた。そのため新たな募兵活動は、すぐに強化する必要があった。いわゆる「農民召集軍」(Landvolkaufgebot)はブランデンブルク辺境伯領の中世の法規範に由来するが、それによれば農民や都市を必要な場合、国防に直接充当させることが可能であった。そして諸身分や都市を一方、枢密顧問官や代官を他方とする長い協議を経て1674年12月末、ようやくその召集が叶う。8個中隊、総勢1300名の同軍のほとんどはケルン(英語版)、ベルリン及びフリードリヒスヴェアダー(ドイツ語版)の各都市に配置された。またアルトマルク(英語版)の農民や、ハイデライター(土地に精通し、馬に乗る林業従事者)を動員し、防衛に充てることにも成功した。なお代官は1675年1月末、ヴェストファーレン諸州からの派兵によってさらに増援を得ている。
※この「開戦準備」の解説は、「スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)」の解説の一部です。
「開戦準備」を含む「スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)」の記事については、「スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)」の概要を参照ください。
- 開戦準備のページへのリンク