同時代の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:15 UTC 版)
『日本国語大辞典』第二版で、「無礼講」の用例として挙げられた中で最も古いのは、花園上皇が著した日記である『花園天皇宸記』の元亨4年(1324年)11月1日条である。 資朝・俊基等、結衆会合、乱遊或不着衣冠、殆裸形、飲茶之会有之、是学達士之風歟(略)世称是無礼講或称破仏講之衆云々 日野資朝・俊基らが、礼儀・秩序もない会合を開いている、という。身分に則った格式の衣冠を着けずに、ほとんど裸も同然の不作法な格好で、喫茶の会を開いているなどという。こんなことが、はたして学問を極めた人のやることだろうか。(略)世間はこれを「無礼講」(あるいは「破仏講」)の衆だと呼んでいるようだ。 無礼講を主宰した日野資朝という儒学者は、中流貴族の出身ながら、才学で公卿(上級貴族)にまで登りつめた天才だった。当時の二大学者皇帝として名高い花園上皇と後醍醐天皇の間で人材獲得競争が行われたほどである。その一方で、『徒然草』によれば、老僧の外見だけを見て「なんと尊い高僧だろう」と言った大臣に対し、老犬を連れてきて「じゃあ、この犬も尊いですよ」とやり込めたとされるなど、一風変わった人物でもあった。 上の原文では「不着衣冠、殆裸形」とあるが、日本文学研究者の兵藤裕己によれば、これは字義どおり裸だったという訳ではないという。当時は、衣冠や烏帽子の種類や色などで身分の上下が表されていたが、そうした制度の規範に合う服を着ず、あえて序列のわからない服を着ることで、世俗的な身分・序列を越えた交流を行った。それが、規範を重んじる花園の眼からは、「ほとんど裸も同然」という評価になったのではないか、という。 兵藤によれば、この無礼講が、建武の新政での茶寄合や連歌会の爆発的流行に発展したのだろうという。また、このころ流行した茶の文化に、闘茶(茶道の前身)という、茶の香りや味から産地を当てる遊びがあった。闘茶の確実な史料上の初見は、これよりやや後に光厳天皇の宮廷で開催された茶寄合であるが、確実ではないものまで含めれば、この無礼講が闘茶の最も早い例の一つではないか、と茶道史研究者の熊倉功夫は推測している。 この無礼講がことさら取り上げられたのは、正中の変という事件と関係する。この日記の記録の少し前、後醍醐天皇と資朝・俊基は鎌倉幕府への討幕計画を立てたと疑われたが、調査の結果、後醍醐は冤罪だとして釈放された。一方、資朝・俊基は無礼講の開催を理由の一つとして拘禁が続けられ、さらに無礼講の参加者の名簿に「高貴の人」(=後醍醐天皇か)が載っているという真偽不明の噂まで立っていたという。日本史研究者の河内祥輔の主張によれば、無礼講そのものに討幕計画などの大した政治的意味はなく、鎌倉幕府が、正中の変の判決をどうしたものか、判断を下すのを先延ばしにするために、ひとまず他愛もない風紀問題を口実にして資朝・俊基の拘禁を延長したのではないか、という。
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