討幕計画
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『太平記』流布本巻1「中宮御産御祈の事附俊基偽籠居の事」によれば、元亨2年(1322年)春ごろ、後醍醐天皇は慧鎮房円観や文観房弘真らの僧侶を集め、中宮西園寺禧子への安産の祈祷をさせた。ところが、3年間、禧子に出産の気配はなかった。これは、安産祈祷という口実で、実は関東調伏(鎌倉幕府打倒の呪詛)の儀式を行っていたのだという。後醍醐は討幕計画が露見することを恐れ、日野資朝・日野俊基・四条隆資・花山院師賢・平成輔ら少数の気鋭の側近のみと謀議し、これに軍事力として武士の足助重成や南都北嶺(興福寺・延暦寺)の僧兵らが加わった。俊基は半年ばかりの間、籠居と称して出仕を止め、山伏の姿に身をやつして諸国を行脚し、当時の世相を実見し、さらに城郭として使えそうな要地を探した。 元亨4年(1324年)3月7日、つまり正中の変の約半年前、後醍醐護持僧の文観は、奈良県般若寺の『木造文殊菩薩騎獅像(本堂安置)』(康俊・康成作、重要文化財)という仏像の制作に関わった。網野善彦らの説によれば、これは討幕成功を祈願するための像であるという。網野の主張によれば、文観は異形異類の輩を率いる武闘派の妖僧であり、後醍醐と武士・大衆勢力を結びつける、仏教界の黒幕だった。そして、このころ、幕府の高級官僚である伊賀兼光は、文観を通じて後醍醐に忠誠を誓い、その密偵として工作活動をしていた。この像も兼光が施主として出資したものである。このように、後醍醐は幕府中枢部まで力が及ぶ、用意周到な謀略を巡らしていたのだという。詳細は#「異形の王権」論を参照。 『太平記』流布本巻1「無礼講の事附玄慧文談の事」によれば、当時、美濃国(岐阜県)に土岐頼貞と多治見国長という剛の者がいて、日野資朝と長く友誼を結んでいた。資朝は二人を討幕側に引き込むために、無礼講という饗宴を開催した。主要参加者は花山院師賢・四条隆資・洞院実世・日野俊基・伊達游雅・聖護院庁法眼玄基・足助重成・多治見国長らだった。無礼講では、身分の上下・僧俗の区別なくみな乱れた服装で珍味や美酒を味わい、薄衣の美姫20余人が接待した。資朝らはこの饗宴の間に討幕の謀議をこらしたが、幕府から怪しまれないように、玄慧法印という「才学無双」と評判の僧侶を招いた。そして、玄慧自身には討幕計画を知らせず、漢詩や漢文の講義などをさせて、学問の集まりであるかのように装った。 佐藤進一によれば、同年6月21日(あるいは村井章介によればこの4年前の同月日)、つまり正中の変勃発3か月前、後醍醐重臣「後の三房」の一人の吉田定房は、討幕計画は時期尚早であり無謀であると上奏文で諫言したが、後醍醐は聞き入れなかった。詳細は#伝「吉田定房奏上」を参照。 同年6月25日、後醍醐父の後宇多上皇が崩御。森茂暁は、『増鏡』「さしぐし」には祖父の亀山崩御を悼む和歌はあるのに対し、後宇多へはないことを指摘し、後醍醐と父の後宇多は最後まで敵対関係にあったと示唆している。
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