討幕計画とは? わかりやすく解説

討幕計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)

正中の変」の記事における「討幕計画」の解説

『太平記』流布本巻1中宮御産御祈の事附俊基偽籠居の事」によれば元亨2年1322年)春ごろ、後醍醐天皇慧鎮円観文観弘真らの僧侶集め中宮西園寺禧子への安産祈祷をさせた。ところが、3年間、禧子に出産気配はなかった。これは、安産祈祷という口実で、実は関東調伏鎌倉幕府打倒呪詛)の儀式行っていたのだという。後醍醐は討幕計画が露見することを恐れ日野資朝日野俊基四条隆資花山院師賢平成輔少数気鋭側近のみと謀議し、これに軍事力として武士の足助重成や南都北嶺興福寺延暦寺)の僧兵らが加わった。俊基は半年ばかりの間、籠居称して出仕止め山伏の姿に身をやつして諸国行脚し当時の世相実見し、さらに城郭として使えそうな要地探した元亨4年1324年3月7日、つまり正中の変の約半年前、後醍醐護持僧文観は、奈良県般若寺の『木造文殊菩薩騎獅像本堂安置)』(康俊・康成作、重要文化財)という仏像制作に関わった。網野善彦らの説によれば、これは討幕成功祈願するための像であるという。網野主張によれば文観異形異類の輩を率い武闘派妖僧であり、後醍醐武士大衆勢力結びつける仏教界の黒幕だった。そして、このころ幕府高級官僚である伊賀兼光は、文観通じて後醍醐忠誠誓い、その密偵として工作活動をしていた。この像も兼光施主として出資したのであるこのように後醍醐幕府中枢部まで力が及ぶ、用意周到な謀略巡らしていたのだという。詳細は#「異形の王権」論を参照『太平記』流布本巻1無礼講の事附玄慧文談の事」によれば当時美濃国岐阜県)に土岐頼貞多治見国長という剛の者がいて、日野資朝長く友誼結んでいた。資朝は二人討幕側に引き込むために、無礼講という饗宴開催した。主要参加者花山院師賢四条隆資洞院実世日野俊基伊達游雅聖護院法眼玄基・足助重成・多治見国長らだった。無礼講では、身分の上下・僧俗の区別なくみな乱れた服装珍味美酒味わい薄衣美姫20余人接待した。資朝らはこの饗宴の間に討幕謀議こらしたが、幕府から怪しまれないように、玄慧法印という「才学無双」と評判僧侶招いた。そして、玄慧自身には討幕計画を知らせず漢詩漢文講義などをさせて、学問集まりあるかのように装った佐藤進一によれば同年6月21日(あるいは村井章介によればこの4年前の同月日)、つまり正中の変勃発3か月前、後醍醐重臣後の三房」の一人吉田定房は、討幕計画は時期尚早であり無謀であると上奏文で諫言したが、後醍醐聞き入れなかった。詳細は#伝「吉田定房奏上」参照同年6月25日後醍醐父の後宇多上皇崩御森茂暁は、『増鏡』「さしぐし」には祖父亀山崩御悼む和歌はあるのに対し後宇多へはないことを指摘し後醍醐と父の後宇多最後まで敵対関係にあった示唆している。

※この「討幕計画」の解説は、「正中の変」の解説の一部です。
「討幕計画」を含む「正中の変」の記事については、「正中の変」の概要を参照ください。

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