討幕説の流布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)
はじめ六波羅探題は、後醍醐天皇謀反説を信じ、これを触れ回った。正中元年事件に勢いづいたのは、持明院統と邦良親王派である。 9月23日、後醍醐天皇は、釈明のために万里小路宣房を鎌倉へ向かわせた(『花園天皇日記』同日条)。 10月1日、資朝が自白してついに罪を認めたという噂が流れた(『後光明院関白日記』同日条)。しかし、河内によれば、その続報がないためこれは誤報であると考えられ、この後の展開を考えれば資朝・俊基は容疑を否認し続けたのではないかという。 後醍醐勅使の万里小路宣房は10月5日に鎌倉に到着し(『武家年代記』同日条)、安達時顕と長崎円喜(高綱)から厳しい取り調べを受けた(『花園天皇日記』10月30日条)。後醍醐が幕府宛てに宣房に持たせた綸旨(りんじ、天皇の私的な通達文)は、「逆鱗以て甚だし」(天子たる朕は激昂している)で始まる気丈なものであった。その内容は、「東夷」である鎌倉幕府に対し、「聖主」である自分に謀反の疑いをかけたことを叱責し、罠にかけられたのは自分の側であるから、真の謀反人を捕らえよ、と幕府に命令するものであった。この綸旨の文言は、漢籍からの引用で埋め尽くされていて、花園上皇は「宋朝の文体のごとし」と評している。後醍醐がてっきり「陳謝」するのだろうと思っていた花園は、内容に驚いたという。 事件発生当時、鎌倉には邦良親王派の六条有忠が駐在していたが(『花園天皇日記』同年8月26日条)、有忠は10月13日に京都に帰還して、邦良に「御吉事」を伝え、まもなく幕府の使者が上京して正式な方針を発表するだろうと告げた(『花園天皇日記』同日条)。河内祥輔の推測によれば、9月下旬から10月上旬(有忠が鎌倉を出る時まで)には、幕府は後醍醐退位・邦良即位の方向で決まりかけていたのではないかという。 ところが、10月22日、後醍醐側近の宣房が京都に帰還しすると、事件の流れは大きく変わった(『花園天皇日記』同日条・30日条)。宣房が持ち帰った結果は、後醍醐への処分は「無為」という幕府の裁定だった。 河内は以下のように主張する。そもそも後醍醐謀反の証拠は、土岐頼員の密告以外には存在せず、六波羅はその検証を後回しにして京や幕府に広めてしまった。謀反が真なら、後醍醐退位は大覚寺統邦良派と持明院統の両方に望まれていることであるから、幕府は遠慮なく後醍醐を処分したはずである。そうならなかったのは、幕府が事件後に十分な検証をした結果、後醍醐の謀反は本当に冤罪であると認定したためであろう、という。
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