討死・自害した人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:19 UTC 版)
※『言継卿記』などによる。 足利義輝(将軍) 慶寿院(義輝の生母) 小侍従局 (義輝の側室、進士晴舎の娘) 進士晴家(美作守) 進士藤延(主馬頭) 荒川晴宣(治部少輔) 荒川輝宗(刑部少輔) 彦部晴直(雅楽頭) 彦部輝信(孫四郎) 一色輝喜(淡路守) 杉原晴盛(兵庫助) 上野輝清(兵部少輔) 上野与八郎 細川隆是(宮内少輔) 治部藤通(三郎左衛門) 小笠原稙盛 沼田光長(上野介) 仁木輝綱(河端輝綱、兵部丞) 武田輝信(武田藤信とも、左兵衛尉) 高師宣(伊予守) 畠山九郎 結城主膳正 朝日新三郎 谷田民部丞 高木右近 小林左京亮 小林某(小林の弟) 小林某(小林の弟) 小森左京進 西面左馬允 田村刑部大輔 田村勘三郎 飯田左吉(右兵衛尉) 中井助左衛門尉 西川新右衛門尉 森田新左衛門尉 八田十右衛門尉 有馬源二郎 木村小四郎 松原小三郎 粟津甚三郎 松井新三郎 疋田弥四郎(匹田弥四郎) 二宮弥三郎 林与五郎 村田弥助 畑某 高橋某 一河某 摂津糸千代丸 大館岩千代丸 福阿弥(治部藤通の弟) 台阿弥 松阿弥 竹阿弥 竹阿弥 金阿弥 大弐(足軽衆) 『言継卿記』には一色又三郎は討死したとあるが、実際は義昭(義秋)の偏諱を受けて秋成と名乗り、その下で活動の記録が見られる。小笠原稙盛はこの戦いで死亡したとされるが、永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書には稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられたことが記されている。木下昌規は、稙盛が死を免れ、変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している。 小林正信は、討死したとされる進士藤延が生き延びて明智光秀と名を変えたと推測し、光秀家中に見える進士貞連は実弟で、藤延の代わりに進士氏の家督を相続したとしている。また、藤延の妹で義輝の側室だった小侍従局は光秀の妻である妻木氏(妻木煕子)になり、小侍従局の身籠っていた子供は明智光慶になったとしている。ただし、前述のように小侍従局は1か月前に既に女児を出産しており、事実関係に矛盾が生じている。
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