討幕説延命
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後醍醐への無罪判決の後も、日野資朝・日野俊基への取り調べは続いた。宣房が帰京したその22日、資朝と俊基は、祐雅法師(『太平記』の伊達游雅)という人物と共に鎌倉へ送られることになった(『花園天皇日記』同日条)。さらに、10月29日、高倉範春が、多治見国長の縁者として、鎌倉で事情聴取されることになった(『花園天皇日記』同日条・12月13日条)。 『花園天皇日記』11月1日条によれば、これは、資朝らが開催していた無礼講という宴会の参加者名簿の落書(匿名の風刺文)が六波羅探題に投じられたのがきっかけで、その参加者をひとまず鎌倉で取り調べるということになったためであるという。名簿には「高貴の人」(=後醍醐天皇か)の名まで載っていたという。その落書を書いたのは、資朝・俊基と共に鎌倉に送られた祐雅であるという噂が立っていたが、真偽は不明。このころ、源為守と智暁法師という人物も鎌倉に送られるという風聞があったが、それは誤報だった。 この間、持明院統の花園上皇は、後醍醐が「真の謀反人を捕縛せよ」と幕府に命じたことに動揺しており、「世間畏怖の外他無し」「君臣皆是れ狂人か」と、後醍醐派を罵っている(『花園天皇日記』同年11月14日条)。河内によれば、後醍醐の意見が幕府に受け入れられれば、今度は一転して花園側が追い詰められることになるため、焦ったのではないか、という。 河内は、後醍醐が無罪となったにも関わらず、入れ替わりで資朝・俊基らが鎌倉に送られて取り調べを受けた理由については、問題をうやむやにしたい幕府の意向があったと推測する。調査の結果、後醍醐が冤罪なのは判明したが、もし完全に白としてしまうと、今度は逆に後醍醐に謀略を仕掛けた持明院統や邦良親王に対し、捜査を行わければならなくなる。そうしてしまうと、問題は後醍醐対幕府に留まらず、朝廷の内紛という国家を揺るがす事態が明るみに出てしまい、幕府にとって最悪の結果になってしまう。そこで、無礼講という他愛もない風紀問題を口実にして、資朝・俊基の勾留を延長し、政治的判断を下すまでの時間を稼いだのはないか、という。
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