異形の王権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 15:29 UTC 版)
「絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「異形の王権」の解説
1960年代、日本史研究者の佐藤進一は、後醍醐天皇を「綸旨万能主義」(全てを綸旨(天皇の私的な命令文)で決める主義)と宋朝皇帝型独裁制を目指した観念論的専制君主と見なし、その理想が天皇の権力に制限を掛ける雑訴決断所の設立などで挫折していき、後醍醐の建武政権は無謀な政策を繰り返してすぐに瓦解してしまった、後世に何も残さなかった政権であると、否定的に捉えた。 佐藤の独裁君主説を発展させたのが、民俗学・日本史研究者の網野善彦の『異形の王権』(1986年)である。網野は後醍醐天皇をヒットラーに喩え、「異形」の天皇と呼んだ。網野はまた、後醍醐の腹心の僧侶である文観を「異形」の僧正と呼び、武闘派の妖僧と見なした。文観は異様な祈祷や呪術を駆使し、律僧としての立場により当時の下層階級からなる異類の軍団を指揮して、後醍醐の討幕に貢献したのであるという。網野は、後醍醐の祖父の亀山天皇や父の後宇多天皇も密教振興に積極的であり、後醍醐の密教への帰依も父祖の影響によるものであることを、部分的には認める。その一方で、後宇多の修行は正統的であるが、後醍醐は父に対抗心を燃やして異端的な修行を行い、天皇自ら幕府調伏の祈祷をしたのだという。 網野は本作品を、後醍醐の異形性を象徴する図像であると位置づけ、天皇ながら法服をまとって武家政権を祈祷で呪詛する姿を描いたものであると解釈した。その祈祷法については、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」(大聖歓喜天浴油供)であり、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘した。そして、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇とした。 その後、1993年に、絵画史料研究者の黒田日出男が本作品について詳細な分析を行い、祈祷や呪詛を行った姿ではなく、王法・仏法・神祇を統合する象徴として描かれたと見られることを指摘した。一方、評価の姿勢としては、網野説を踏襲し、「異形」の図像とした。
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