日本文学での反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
2018年には、『太平記』研究者の兵藤裕己が、前節の内田啓一説を継承し、さらに古語の知識や『太平記』の成立過程を交えて、御産祈祷における『太平記』説を批判した。 これより前の1986年、日本史研究者の網野善彦は、後醍醐天皇は「異形の王権」を体現する「ヒットラーの如き」異常な独裁者であると見なした。また、後醍醐が儀式に使ったという聖天供の像について、象頭人身の男女が抱き合っているという見た目から、後醍醐は性的儀式を信奉していたと結論づけ、後醍醐の「異形の天皇」ぶりを象徴する逸話であると主張した。後醍醐側近の僧侶である文観房弘真についても、「異形の僧正」である妖僧と主張した。 しかし、兵藤は内田の研究成果を援用し、後醍醐天皇の密教への傾倒は父である後宇多天皇を引き継いでいることを指摘し(たとえば『後宇多天皇宸翰御手印遺告』)、「異形」どころかむしろ逆に、皇統の伝統を受け継いでいると主張した。これは、金沢貞顕の元徳元年(1329年)12月頃の書状で、後醍醐が一人で祈祷を行っていることが、祈祷の実行能力そのものについては特に驚かれていないことからも実証される、とした。 また「聖天供」が言及された貞顕の10月の書状については、内田の研究に則って聖天供は除災や招福、富貴や子宝(即物的なものではなく幅広く夫婦和合という意味での)といった息災法を祈願するものであるとして、百瀬今朝雄の幕府調伏説や、網野の性的儀礼説には根拠がないことを指摘した。さらに、兵藤は仮にもし息災法ではなく調伏の祈祷が行われていたのだとしても、安産を阻害するもののけ(怨霊)の調伏を行うための祈祷は、『紫式部日記』『栄花物語』『源氏物語』『平家物語』など多くの作品に現れており、それを倒幕に結びつけることはできない、と非倒幕説を補強した。文観妖僧説についても、敵対派閥からの中傷を起源として後世に広まった虚像でしかない、という。 また、百瀬論文の倒幕説では、二通の貞顕書状の文言のうち、1通目の「中宮御懐妊の事、実ならざる」が「中宮の妊娠は調伏に偽装した不実のことである」と、2通目の「御祈りの事、言語道断に候ふか」が「幕府調伏の祈祷はとんでもない不届きなことである」と解釈されている。しかし、内田によれば、『太平記』を外して読めば、「実ならざる」は単に前回の懐妊の噂が真ではなかったという以上の深い意味はないし、「言語道断」に至っては、現代語の言語道断の意味は当時では稀にしかない用法であり、この時代では「言いようもないほど立派である」という意味が主である。したがって、百瀬説とは逆に、2通目の書状は、(今回の懐妊の噂は本当のようであるから)「さぞや盛大な祈祷が行われているのだろうなあ」という貞顕から後醍醐・禧子夫婦への祝意と解釈するのが自然である、という。 このような歴史的事実と反することが『太平記』で描かれた理由として、兵藤は、二つの理由を挙げる。 一つ目は、文学的効果を狙ったものであり、唐の大詩人である白居易の漢詩「上陽白髪人」を下敷きにして、廉子を唐の玄宗皇帝の寵姫で傾城の美女である楊貴妃に、禧子を楊貴妃の嫉妬から玄宗皇帝との関わりを邪魔された上陽白髪の人になぞらえて物語を作ったものであろうという。 二つ目は、『太平記』の成立過程と政治問題に関わることである。今川了俊の『難太平記』によれば、法勝寺の円観が『太平記』の原型を、将軍足利尊氏の弟で当時の事実上の室町幕府最高権力者の足利直義に提出し、直義がそれを玄恵に見せたところ、不適切な箇所が多々あるとして、「書き入れ(加筆)」と「切り出し(削除)」が行われたという。現存する『太平記』テキストのうち巻第1・第12・第13は、建武政権批判が色濃い上に、他の巻と人物像や設定が一致しないため、兵藤によれば、このとき足利政権周辺で意図的に加筆・改訂されたのではないかという。
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