日本文壇
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三島由紀夫1954年に知り合って以来、親交を重ねた。ドナルド・キーンの当て字「怒鳴門鬼韻」は文通時に三島が書いて送ったものである。三島事件で三島が死亡したときには日本への渡航を調整し、自らの『仮名手本忠臣蔵』の翻訳本を祭壇に供えた。当初キーンは弔事を読むことも引き受けたが、三島の右翼思想を擁護しているように捉えられるとの友人らの説得により葬式には出席せず、そのことを後に何度も悔やんだと著書で述べている。キーンは誠己に対し、「天才はそんなにいるものではありません。僕の知っている天才はウェイリー先生と三島由紀夫さんだけです」と語っている。 永井荷風初対面時、荷風の話し言葉があまりに美しかったため、彼のように話せたら「死んでもいい」と思った。彼の『すみだ川』を英訳し、それを読んだ荷風から褒められた。 安部公房文学者の中でキーンと一番親しい友人であった。 大江健三郎中央公論が主催した講演旅行が縁で知り合い、キーンが大江の著書の翻訳を取り計らったことなどで親交を深め、大江が仲を取り持ったことで安部公房とキーンは終生の親友になることができた。しかし、大江はその後キーンを避けるようになった。1994年にキーンが井上靖文化賞を受賞したときには大江が急遽授賞式に駆けつけて祝辞を述べるなど、時折好意を見せることもあったが、結局最後まで関係が修復されることはなく、キーンにもその原因がなんであったのか不明だった模様である。 他に谷崎潤一郎・川端康成・大岡昇平・有吉佐和子・吉田健一・石川淳・篠田一士・司馬遼太郎・瀬戸内寂聴など。指揮者の小澤征爾とも交流があった。
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