『花影』のモデルとして
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報せを受けて駆けつけた大岡は号泣していたというが、『中央公論』8月号から、睦子をモデルとしてに『花影』の連載を始めた。当初は6月開始の予定だったが2ヶ月遅れたという。そのエピグラフは、むしろ睦子を引き受けなかった青山を責めるものになっている。1959年8月号で完結すると、『群像』9月号の合評会で、河上徹太郎、平野謙、高見順がこれを評したが、河上は自身の愛人だった女だけに歯切れが悪く、奇妙な座談会になっている。しかし『花影』は単行本になると、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞した。 1961年に「純文学論争」が起きると、高見順は「純文学の過去と現在」(『新潮』1962年2月号)で『花影』を批判し、「私はあの小説のヒロインのモデルになつた女性を知つてゐる。小林秀雄も、いや彼のはうがもつと詳しく知つてゐる(略)河上徹太郎も葉子のモデルになつた女性を知つてゐる。ひよつとすると大岡昇平よりも、もつとよく知つてゐる。さうした河上徹太郎や小林秀雄があの小説をかういふふうに褒めてゐるのはあくまで小説評である。(略)しかし大岡昇平が彼の「直接経験」を『花影』のやうな「詩的ヴィジョン」的小説で書いたことに疑問がなかつたか。私は疑問を呈したいのだ。(略)心の修羅場--小説としてはもつとも面白いところである。大岡昇平などの舌なめずりして書きたがるに違ひないところである。(略)どうしてこのもつとも面白いところを書かなかったのか。(略)しかしそれを書くことは、実生活の上でいろいろ差し障りがあつて、おそらく不可能だらう。だつたら、あの女性のことを何もわざわざ小説で書くことはないのだと私は思ふ。(略)書けないのは当り前だと思ふが、ひとたび書くと心にきめた以上、あんな体裁のいい「ありきたりの風俗小説になりかねない」やうな小説を書く手はないのだ。」と書いている。 『花影』のモデルが大岡の愛人であるとはっきり述べたのは、巌谷大四の『戦後・日本文壇史』(1964)で、これは文壇周知のことだった。 大岡の死後、白洲は『いまなぜ青山二郎なのか』(1991)で『花影』を批判し、睦子がちゃんと描けていない、肝心の魔性が出ていないとし、青山に対しても大岡の日ごろの恨みを小説で晴らしたようだ、とした。このあたりから、坂本睦子への関心が高まり、久世光彦は睦子をモデルに改めて『女神』(2003)を書いた。 『花影』は1961年に川島雄三監督・池内淳子主演で映画になっている。
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