日本への渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 22:08 UTC 版)
「シャルル・ド・モンブラン」の記事における「日本への渡航」の解説
1854年(嘉永7年)アメリカ合衆国のペリー艦隊が日本を開国させたというニュースが流れるや、日本に対する興味を持ち、渡航を熱望するようになる。 1858年(安政5年)、フランス特命全権使節として清に派遣されたグロ男爵に随行し、9月に初めて来日。日仏通商条約の締結後、グロ男爵と別れて外務省から依頼された学術調査のためフィリピンに渡航した。その後フランスへ帰国し、父の死を看取る。 1862年(文久2年)、再び日本を訪れたモンブランは横浜に滞在し、公使のデュシェーヌ・ド・ベルクールと交流する。帰国に際し私設秘書として斎藤健次郎を伴い、日本語や日本文化の研究に勤しんだ。1863年(文久3年)末、江戸幕府が孝明天皇の強い攘夷の要望から横浜を鎖港するために外国奉行・池田長発を正使とする交渉団をフランスへ派遣した際には、これと積極的に接触し、使節団のパリ見学やフランス政府要人との会談を斡旋した。また1865年(慶応元年)に再び派遣された外国奉行・柴田剛中らが渡仏した際にも接触し、日本とベルギーとの通商条約締結を勧めたが、柴田からはあまり信用されなかった。
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