ふるさとをめざして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:05 UTC 版)
岐部は殉教を覚悟して日本への渡航を希望したが、そのころの日本では弾圧が強化され、宣教師の入国は厳禁されていたため、司祭を乗せる船がなかった。そのため岐部は日本への足を求めて東南アジア各地をまわった。1630年にマニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功。難破しながらも何とか薩摩の坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)に到着した。日本を出てから16年ぶりの帰国であった。 岐部は潜伏し、激しい迫害と摘発を逃れながら、長崎から東北へ向かいつつ、信徒たちを励ましたが、1639年に仙台にあるキリシタンの家にかくまわれていたところを密告され逮捕された。江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)と対面すると逆に彼に信仰に戻るよう薦めた。岐部は激しい拷問を受けても棄教せず、最後は、浅草待乳山聖天近くの明地で穴吊りにされた。そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、1639年7月4日(旧暦6月4日)に腹を火で炙られ殺された。52歳没。
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