日本への渡海とは? わかりやすく解説

日本への渡海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 01:33 UTC 版)

鑑真」の記事における「日本への渡海」の解説

最初渡海企図743年夏のことで、このときは、渡海嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告したため日本僧は追放された。鑑真留め置かれた。2回目試み744年1月周到な準備の上出航した激し暴風遭い、一旦、明州余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。 再度出航企てたが、鑑真渡日惜しむ者の密告により栄叡逮捕され3回目失敗に終わる。 その後栄叡病死装って出獄成功し江蘇浙江からの出航困難だとして、鑑真一行福州から出発する計画立て福州向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真安否気遣って渡航阻止役人訴えた。そのため、官吏出航差し止めされ、4回目失敗する748年栄叡が再び大明寺鑑真訪れた懇願すると、鑑真5回目渡日決意する6月出航し舟山諸島数ヶ月風待ちした後、11月日本向かい出航したが、激し暴風遭い14日間漂流の末、遥か南方海南島漂着した鑑真当地大雲寺1年滞留し海南島数々医薬知識伝えた。そのため、現代でも鑑真顕彰する遺跡残されている。 751年鑑真揚州に戻るため海南島離れた。その途上端州の地で栄叡死去する動揺した鑑真広州から天竺向かおうとしたが、周囲慰留された。この揚州までの帰上の間鑑真南方気候激し疲労などにより、両眼失明してしまう。753年遣唐大使藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、 清河鑑真同乗拒否した。それを聞いた遣唐副使大伴古麻呂清河内密に第二船に鑑真乗船させた。 天平勝宝5年(753)11月16日に四船が同時に出航する第一船と第二船は12月21日阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着第三船はすでに前日20日到着していた。第四船は不明沖縄到着した三船は約半月滞在し天平勝宝5年(753)12月6日南風(はえ・ぱいかじ)を得て三船共に沖縄発して多禰嶋(多禰国種子島屋久島〉)を目指し向けて出港する出港直後大使藤原清河阿倍仲麻呂乗った第一船は岩に乗り上げ座礁第二三船そのまま日本目指した。第一船はベトナム北部漂着し、後ちに唐に戻る。 第二三船は共に天平勝宝5年12月7日に益救嶋(屋久島)に到着して鑑真渡日叶った。 (多禰國702年から824まで、天長元年(824)に大隅国併合)多禰国年表 鑑真渡日天平勝宝5年(753)12月7日屋久島(多禰国)である。 朝廷大宰府受け入れ態勢屋久島で待つこと11日12月18日屋久島から大宰府目指し出港する。 翌19日遭難する大伴古麻呂鑑真乗った第二船は20日薩摩国秋目(秋妻屋浦/鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着その後12月26日に、大安寺延慶迎えられながら大宰府到着奈良朝廷への到着は、翌年天平勝宝6年(754)2月4日である。(●参照唐大和上東征伝『続日本紀』

※この「日本への渡海」の解説は、「鑑真」の解説の一部です。
「日本への渡海」を含む「鑑真」の記事については、「鑑真」の概要を参照ください。

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