日本文学 - 私小説 / オートフィクション
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「フィリップ・フォレスト」の記事における「日本文学 - 私小説 / オートフィクション」の解説
日本文学も研究対象の一つであり、これはフォレストの作家活動に深く関わっている。とりわけ、小児がんに侵され4歳で亡くなった愛娘に向き合う処女小説『永遠の子ども』(1997年刊行)を書く契機となったのは、大江健三郎、津島佑子らの「私語り」に触れたことであった。2001年に発表した第五作と第六作の評論がそれぞれ『大江健三郎』、『私小説』であり、さらに『取り違えの美しさほか、日本文学論』(2005年)、『俳句』(2008年)などを著し、併せて、写真家荒木経惟の作品を長大な「私小説」として読み解いた『ついにアラキ - 愛するためにのみ生きた男』(2008年、邦題『荒木経惟 - つひのはてに』)を発表している。 十二月賞(フランス語版)(デサンブル賞)を受賞したフォレストの私小説『さりながら』は、パリ、京都、東京、神戸を舞台に小林一茶、夏目漱石、写真家山端庸介の生涯をたどる日本文化論でもある。さらに『永遠の子ども』を除くフォレストの作品をすべて翻訳している澤田直が編纂した日本文化論集『夢、ゆきかひて』では、漱石、大江健三郎、津島佑子のほか、中原中也、小林秀雄、写真家畠山直哉についても論じている。 娘を失った悲しみ、喪失、喪は作家フォレストの作品に一貫するテーマであり、これは2017年に邦訳が刊行された『シュレーディンガーの猫を追って』においても同様である。量子力学における矛盾を説明する思考実験「シュレーディンガーの猫」に着想を得たこの作品では、「娘が死ななかった現実もあるのではないか」との想いから、パラレルワールド(並行世界)の可能性を描いている。彼は、「現代では『苦しみを乗り越えよ』『悲しみを忘れねば』と一種のイデオロギーのように言われる。でも、むしろ『悲しみや苦しみとともに在る』ことがわれわれを人間らしくする。悲しみにとらわれるのを恥や病だ、とは考えないでほしい」と語る。こうした観点から、2019年にフォレストはイギリス文学における「悲しみ」をテーマとした小説『私は今も私の悲しみの王』を発表した。 フォレストは日本の私小説に近いフランスのオートフィクションの作家とされるが、彼自身、研究者として私小説と併せてオートフィクションの研究も行っており、パラレルワールドへの関心、アラゴン、アンス、荒木経惟などの伝記を書くこともまた、現実と虚構、あるいは自伝的虚構への関心からである。
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