御産祈祷
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二人の結婚の翌年には早くも、珣子は懐妊した。建武元年(1334年)10月16日に、妊娠5か月目に行われる着帯の儀が進められた。さて、天皇の皇妃に対する想い入れを測る定量的な尺度の一つに、御産祈祷の回数がある。以下に、この時期の諸帝が行わせた御産祈祷の回数を示す。 御産祈祷の回数(「御産御祈目録」)和暦西暦対象女院号配偶者回数弘長2年 1262年 西園寺公子 東二条院 後深草 27 弘長2年 1262年 洞院佶子 京極院 亀山 27 文永2年 1265年 洞院佶子 京極院 亀山 10 文永2年 1265年 西園寺公子 東二条院 後深草 26 文永4年 1267年 洞院佶子 京極院 亀山 15 文永7年 1270年 西園寺公子 東二条院 後深草 15 建治2年 1276年 近衛位子 新陽明門院 亀山 25 弘安2年 1279年 近衛位子 新陽明門院 亀山 9 乾元2年 1303年 西園寺瑛子 昭訓門院 亀山 36 延慶3年 1311年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 51 正和2年 1313年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 34 正和3年 1314年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 35 正和4年 1315年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 22 正和4年 1315年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 16 文保3年 1319年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 10 元亨元年 1321年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 10 嘉暦元年 1326年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 43 建武2年 1335年 珣子内親王 新室町院 後醍醐 66 建武4年 1337年 懽子内親王 宣政門院 光厳 10 見てわかる通り、後醍醐天皇が、珣子内親王のために、僧侶たちに行わせた御産祈祷の回数は、歴代最高の66回である。いかに後醍醐が珣子を大切に想い、丁重に扱っていたかが証明される。 後醍醐と前の正妃である西園寺禧子はおしどり夫婦として著名で、その夫婦円満さは歴史物語『増鏡』などの主要な題材として描かれている。事実、上の表で実証的に見ても、1度あたり平均33.3回の御産祈祷を依頼しており(珣子の分は除外して算出)、後伏見の平均24.2回、後深草の平均23回、亀山の平均20.3回、光厳の平均10回を大きく突き放している。さらに、ここに加えて、後醍醐は真言宗の阿闍梨(師僧)の資格を持っていたため、禧子の身を案じて、僧侶に任せず天皇である自分自身が御産祈祷を行うこともあった。そして、珣子に対する御産祈祷の回数は、その禧子への手厚い祈祷の平均回数の、さらに2倍の値である。 祈祷は、着帯の儀翌年の建武2年(1335年)2月5日から本格的なものとなり、出産日の3月中旬まで続けられた。無論、これらの盛大な御産祈祷には、後醍醐の親族とその側近だけではなく、持明院統の皇族や西園寺家の大貴族も沙汰人(出資者)となって支援した。たとえば、珣子の同母弟である光厳上皇と、後醍醐の愛娘で新しく光厳上皇妃として持明院統側に移った懽子内親王の夫妻も出資を行っている。後醍醐第四皇子である尊澄法親王(のちの宗良親王)は、自身が天台座主(天台宗延暦寺の長)であり、出資者と祈祷実行者の両方になっている。変わったところでは、足利尊氏や新田義貞など、後醍醐に抜擢された武士も沙汰人となった。 珣子の母方である西園寺家からの後援が手厚かったことは、「中宮御産御祈日記」(宮内庁書陵部『皇室制度史料』儀制 誕生二 pp. 151–155)からわかる。これによれば、この御産祈祷の着座公卿は三条実忠・西園寺公宗・徳大寺公清・洞院実世・西園寺公重・菊亭実尹(今出川実尹)の6人。そして、惣奉行(総奉行)は今出川兼季で、御産奉行は葉室長顕である。洞院家と今出川家は、西園寺家の分家である。また、このうち公宗と実尹は中宮庁の幹部でもある。 さらに、「中宮御産御祈日記」によれば、出産が常盤井殿で行われたことも注目される。これは、西園寺実氏の別邸として建てられた後、大宮院(後嵯峨天皇中宮西園寺姞子)・亀山上皇(後醍醐祖父)・昭訓門院(亀山の側室西園寺瑛子)・恒明親王(後醍醐叔父)と受け継がれてきた。鎌倉時代最末期には、両統によって院御所として使用され、元弘元年(1331年)には、持明院統の伏見上皇・後伏見上皇が仙洞御所(上皇の邸宅)として使用している。さらに、珣子自身が生まれたのもこの地である。つまり、大覚寺統・持明院統・西園寺家の結節点となる邸宅だったのである。 「中宮御産御祈日記」からは、さらにもう一点、後醍醐が持明院統との融和路線を維持するのに腐心した形跡が見られる。それは御産奉行に葉室長顕を起用したことである。この人物は、光厳上皇の同年6月24日院宣(懽子の御産祈祷のための命令)で奉者という役目を務めており、言い換えれば、光厳の側近であったことになる。三浦によれば、このような持明院統寄りの人物に対し、珣子への御産祈祷の監督という重大な役目を依頼したのは、後醍醐から持明院統への配慮と考えられるのではないか、という。
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御産祈祷
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その後、『続群書類従』所収「御産御祈目録」によれば、嘉暦元年(1326年)6月から、禧子への安産祈祷が行われた。 『増鏡』「むら時雨」によれば、当時、後醍醐天皇は禧子との間に懽子内親王しか子がいないのに満足していなかったが、ついに懐妊の兆しが見えたので、盛大な安産祈祷を始めたという。禧子は出産のため甥である恒明親王の邸宅である常盤井殿に移った。出産予定日が近づくと公卿・殿上人や、大臣で禧子の同母兄の今出川兼季らがひっきりなしに押しかけた。後醍醐側近の聖尋や、禧子の同母兄の道意を初め、多くの高僧も修法を行った。世間は祝賀の雰囲気で一杯になった、という。 日本文学研究者の兵藤裕己は、夫婦の仲睦まじさは『増鏡』「秋のみ山」や『太平記』4巻など様々な書で讃えられており、盛大な祈祷も納得がゆくという。一方、このタイミングで行われたことについては、日本史研究者の河内祥輔によれば、政治的意図なのではないかという。この3か月前の正中3年(1326年)3月、後醍醐にとって最大の政敵の一人ともいえる、大覚寺統正嫡で後醍醐の甥である皇太子邦良親王が薨去していた。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、ここで禧子から高貴な生母を持つ皇子が誕生すれば、後醍醐派が後継者争いで勝利する可能性が高くなるのである。いずれにせよ、前節(→達智門院との親交)で述べたように、禧子にはもともと後醍醐派とは親交があって、西園寺家の遺産によって後醍醐派の強化を図るなど、禧子個人でも能動的に動いており、政治目的であるとしても夫婦の共同作業だった。 ところが、引き続き『増鏡』「むら時雨」によれば、いつまで経っても禧子には子が生まれず、30か月以上経ってしまったので、常盤井殿から宮中へと帰った。産屋や新生児の乳母・侍女なども選定済みだったのに、全て意味がなくなったので、世間はがっくりときたという。祈祷の修法も大幅に削減された。同書「久米のさら山」によれば、このとき世間の人々から心ない笑いを浴びせかけられて、禧子は大きな精神的打撃を受けたという。後醍醐もまたそのことで心苦しくなったという。なぜこの時お産がなされなかったかについては、諸説ある。日本史研究者の保立道久は、近衛天皇中宮の藤原呈子の例を引き、想像妊娠だったのではないか、と推測している。一方、河内は、後醍醐が本来意図していたのは「安産祈祷」ではなく「懐妊祈祷」だったのが、周囲に誤解されてしまったのではないか、という推測をしている。 多くの僧が去っていった後でも、後醍醐天皇ただ一人は禧子のために帝自ら修法を続けていた。鎌倉幕府の元・執権の金沢貞顕が、おそらく元徳元年(1329年)10月中旬ごろに、息子の金沢貞将(六波羅南探題)に宛てて書いた書状には、以下のようにある。 一 中宮の御懐妊の事、実ならざる間、御り祈等止められ候へども、禁裏一所御坐の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存すべく候ふなり。一 禁裏、聖天供とて□□御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふそう。 第1項は、「中宮懐妊が事実ではなかったので、祈祷は取りやめになったが、禁裏一所(天皇陛下お一人)がまだ祈祷をしている」という噂が鎌倉に届いており、これは本当なのか教えて欲しい、と依頼している。第2項は、聖天供という修法を帝自ら行っているらしいが、これは不審である、と述べている。 仏教美術研究者の内田啓一の指摘を発展させた兵藤の説明では以下のようになる。後醍醐父の後宇多天皇は密教の修法を極めており、後醍醐も父に倣って深く通じていたため、一人で修法を行うことができるだけの力量はあったし、それはまた誰もが知る周知の事実であった。また、「聖天供」というのは、除災や招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願して、当時の貴族社会で広く行われた普通の祈祷である。したがって、ここに現れているのは、妻を心配に想って父祖伝来の手法で無事を願う、一人の夫として自然な光景である。貞顕が不審とするのは、懐妊が事実でないならば、なぜ後醍醐一人が残っているのかという素朴な疑問であって、特に幕府調伏の祈祷などを疑っていた訳ではないと考えられる。 実際、同年12月の中旬もしくは下旬に書かれたと推測される書状では、貞顕の疑念は氷解しており、禧子と後醍醐を祝っている。 一 中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか。一 禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ。 貞顕は、禧子が今度こそ懐妊し、11月26日に京極殿(土御門殿)に移ったと聞いて、「比興申すばかりも無き」つまり「興あることこの上ない」と祝意を示し、祈祷は「言語道断」つまり古語で「言い尽くせないほど立派なものである」のだろうかと、素直に後醍醐・禧子夫妻の幸せを喜んでいる。 『新拾遺和歌集』には、これより数か月遡る嘉暦4年(1329年)某日(嘉暦4年は改元で8月29日までしかないのでそれ以前)、着帯の儀(妊娠5か月目に行う朝廷儀式)の翌日、朝餉の間(あさがれいのま、天皇が略式の食事を取る部屋)の几帳(薄絹を下げた間仕切り)に、葵が掛かっていたのを見て禧子が詠んだ歌が入集している。 嘉暦四年、御着帯の後祭の日、あさがれゐの御き帳に葵のかゝりたりけるを御覧じてよませ給けるわが袖に 神はゆるさぬ あふひ草 心のほかに かけて見る哉(大意:私の袖にあふひ草(葵草)をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『源氏物語』で、あふひ草を詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首がありましたね。私の場合は逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様がお許しにならないのだとばかり思っていました。でも、思いもよらず、今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね) —後京極院、『新拾遺和歌集』夏・203 だが、この年も禧子の御産はうまくいかなかった。新たな皇子・皇女が生まれたという記録はない。 なお、2000年代初頭までは、軍記物語『太平記』の物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏の儀式の偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐は異形の天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方は2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は#『太平記』を参照。
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