御産祈祷とは? わかりやすく解説

御産祈祷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 14:56 UTC 版)

珣子内親王」の記事における「御産祈祷」の解説

二人結婚翌年には早くも、珣子は懐妊した。建武元年1334年10月16日に、妊娠5か月目に行われる着帯の儀進められた。さて、天皇皇妃対す想い入れ測る定量的な尺度一つに、御産祈祷の回数がある。以下に、この時期の諸帝が行わせた御産祈祷の回数を示す。 御産祈祷の回数(「御産御祈目録」)和暦西暦対象女院号配偶者回数弘長2年 1262年 西園寺公子 東二条院 後深草 27 弘長2年 1262年 洞院佶子 京極院 亀山 27 文永2年 1265年 洞院佶子 京極院 亀山 10 文永2年 1265年 西園寺公子 東二条院 後深草 26 文永4年 1267年 洞院佶子 京極院 亀山 15 文永7年 1270年 西園寺公子 東二条院 後深草 15 建治2年 1276年 近衛位子 新陽明門院 亀山 25 弘安2年 1279年 近衛位子 新陽明門院 亀山 9 乾元2年 1303年 西園寺瑛子 昭訓門院 亀山 36 延慶3年 1311年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 51 正和2年 1313年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 34 正和3年 1314年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 35 正和4年 1315年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 22 正和4年 1315年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 16 文保3年 1319年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 10 元亨元年 1321年 西園寺寧子 広義門院 後伏見 10 嘉暦元年 1326年 西園寺禧子 後京極院 後醍醐 43 建武2年 1335年 珣子内親王 新室町院 後醍醐 66 建武4年 1337年 懽子内親王 宣政門院 光厳 10 見てわかる通り後醍醐天皇が、珣子内親王のために、僧侶たちに行わせた御産祈祷の回数は、歴代最高の66回である。いかに後醍醐が珣子を大切に想い丁重に扱っていたかが証明される後醍醐と前の正妃である西園寺禧子おしどり夫婦として著名で、その夫婦円満さは歴史物語増鏡』などの主要な題材として描かれている。事実上の表で実証的見ても、1度あたり平均33.3回の御産祈祷を依頼しており(珣子の分は除外して算出)、後伏見平均24.2回、後深草平均23回、亀山平均20.3回、光厳平均10回を大きく突き放している。さらに、ここに加えて後醍醐真言宗阿闍梨師僧)の資格持っていたため、禧子の身を案じて僧侶任せず天皇である自分自身が御産祈祷を行うこともあった。そして、珣子に対する御産祈祷の回数は、その禧子への手厚い祈祷平均回数の、さらに2倍の値である。 祈祷は、着帯の儀翌年建武2年1335年2月5日から本格的なものとなり、出産日の3月中旬まで続けられた。無論、これらの盛大な御産祈祷には、後醍醐親族とその側近だけではなく持明院統皇族西園寺家の大貴族沙汰人出資者となって支援した。たとえば、珣子の同母弟である光上皇と、後醍醐愛娘新しく光厳上皇妃として持明院統側に移った懽子内親王夫妻出資行っている。後醍醐第四皇子である尊澄法親王(のちの宗良親王)は、自身天台座主天台宗延暦寺の長)であり、出資者祈祷実行者両方になっている変わったところでは、足利尊氏新田義貞など、後醍醐抜擢され武士沙汰人となった。 珣子の母方である西園寺家からの後援が手厚かったことは、「中宮御産御祈日記」(宮内庁書陵部皇室制度史料』儀制 誕生二 pp. 151155)からわかる。これによれば、この御産祈祷の着座公卿三条実忠西園寺公宗徳大寺公清洞院実世西園寺公重菊亭実尹(今出川実尹)の6人。そして、惣奉行総奉行)は今出川兼季で、御産奉行葉室長顕である。洞院家今出川家は、西園寺家分家である。また、このうち宗と実尹は中宮庁の幹部でもある。 さらに、「中宮御産御祈日記によれば出産常盤井殿で行われたことも注目される。これは、西園寺実氏別邸として建てられた後、大宮院後嵯峨天皇中宮西園寺姞子)・亀山上皇後醍醐祖父)・昭訓門院亀山側室西園寺瑛子)・恒明親王後醍醐叔父)と受け継がれてきた。鎌倉時代最末期には、両統によって院御所として使用され元弘元年1331年)には、持明院統伏見上皇後伏見上皇仙洞御所上皇邸宅)として使用している。さらに、珣子自身生まれたのもこの地である。つまり、大覚寺統持明院統西園寺家結節点となる邸宅だったのである。 「中宮御産御祈日記」からは、さらにもう一点後醍醐持明院統との融和路線維持するのに腐心した形跡見られる。それは御産奉行葉室長顕を起用したことである。この人物は、光厳上皇同年6月24日院宣(懽子の御産祈祷のための命令)で奉者という役目務めており、言い換えれば光厳側近であったことになる。三浦によればこのような持明院統寄り人物対し、珣子への御産祈祷の監督という重大な役目依頼したのは、後醍醐から持明院統への配慮考えられるではないか、という。

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御産祈祷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「御産祈祷」の解説

その後、『続群書類従所収御産御祈目録によれば嘉暦元年1326年6月から、禧子への安産祈祷が行われた。 『増鏡』「むら時雨によれば当時後醍醐天皇は禧子との間に懽子内親王しか子がいないのに満足していなかったが、ついに懐妊兆し見えたので、盛大な安産祈祷始めたという。禧子は出産のため甥である恒明親王邸宅である常盤井殿に移った出産予定日近づく公卿殿上人や、大臣で禧子の同母兄の今出川兼季らがひっきりなしに押しかけた。後醍醐側近の聖尋や、禧子の同母兄の道意を初め多く高僧修法行った世間祝賀雰囲気一杯になった、という。 日本文学研究者兵藤裕己は、夫婦の仲睦まじさは『増鏡』「秋のみ山」や『太平記』4巻など様々な書で讃えられており、盛大な祈祷納得がゆくという。一方、このタイミング行われたことについては、日本史研究者河内祥輔によれば政治的意図なのではないかという。この3か月前の正中3年1326年3月後醍醐にとって最大政敵一人ともいえる、大覚寺統正嫡後醍醐の甥である皇太子邦良親王薨去していた。これによって邦良派は大きな打撃受けたため、ここで禧子から高貴な生母を持つ皇子誕生すれば、後醍醐派が後継者争い勝利する可能性高くなるのであるいずれにせよ前節(→達智門院との親交)で述べたように、禧子にはもともと後醍醐派とは親交があって、西園寺家遺産によって後醍醐派の強化を図るなど、禧子個人でも能動的に動いており、政治目的であるとしても夫婦共同作業だった。 ところが、引き続き増鏡』「むら時雨によればいつまで経っても禧子には子が生まれず、30か月以上経ってしまったので、常盤井殿から宮中へと帰った産屋新生児乳母侍女なども選定済みだったのに、全て意味がなくなったので、世間がっくりときたという。祈祷修法大幅に削減された。同書久米のさら山によれば、このとき世間人々から心ない笑い浴びせかけられて、禧子は大きな精神的打撃受けたという。後醍醐もまたそのことで心苦しくなったという。なぜこの時お産がなされなかったかについては、諸説ある。日本史研究者保立道久は、近衛天皇中宮藤原呈子の例を引き、想像妊娠だったのではないか、と推測している。一方河内は、後醍醐が本来意図していたのは「安産祈祷ではなく懐妊祈祷」だったのが、周囲誤解されてしまったのではないか、という推測をしている。 多くの僧が去っていった後でも、後醍醐天皇ただ一人は禧子のために帝自ら修法続けていた。鎌倉幕府の元・執権金沢貞顕が、おそらく元徳元年1329年10月中旬ごろに、息子金沢貞将六波羅探題)に宛てて書いた書状には、以下のようにある。 一 中宮の御懐妊の事、実ならざる間、御り祈等止められ候へども、禁裏一所御坐の由、その聞こえ候ふ実事候ふか。承り存すべく候ふなり。一 禁裏聖天供とて□□御祈り候ふの由承り候ふ不審候ふそう。 第1項は、「中宮懐妊事実ではなかったので、祈祷取りやめになったが、禁裏一所天皇陛下お一人)がまだ祈祷をしている」という噂が鎌倉届いており、これは本当なのか教えて欲しい、と依頼している。第2項は、聖天供という修法を帝自ら行っているらしいが、これは不審である、と述べている。 仏教美術研究者内田啓一指摘発展させた兵説明では以下のようになる後醍醐父の後宇多天皇密教修法極めており、後醍醐も父に倣って深く通じていたため、一人修法を行うことができるだけ力量はあったし、それはまた誰もが知る周知の事実であったまた、聖天供」というのは、除災招福富貴子宝夫婦和合)を祈願して当時貴族社会広く行われた普通の祈祷である。したがって、ここに現れているのは、妻を心配に想って父祖伝来の手法で無事を願う、一人の夫として自然な光景である。貞顕が不審とするのは、懐妊事実でないならば、なぜ後醍醐一人残っているのかという素朴な疑問であって、特に幕府調伏祈祷などを疑っていた訳ではない考えられる実際同年12月中旬もしくは下旬書かれたと推測される書状では、貞顕の疑念氷解しており、禧子と後醍醐祝っている。 一 中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか。一 禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ。 貞顕は、禧子が今度こそ懐妊し11月26日京極殿(土御門殿)に移った聞いて、「比興申すばかりも無き」つまり「興あることこの上ない」と祝意示し祈祷は「言語道断」つまり古語で「言い尽くせないほど立派なのである」のだろうかと、素直に後醍醐・禧子夫妻幸せ喜んでいる。 『新拾遺和歌集』には、これより数か月遡る嘉暦4年1329年某日嘉暦4年改元8月29日までしかないのでそれ以前)、着帯の儀妊娠5か月目に行う朝廷儀式)の翌日朝餉の間あさがれいのま天皇略式食事を取る部屋)の几帳薄絹下げた間仕切り)に、掛かっていたのを見て禧子が詠んだ歌が入集している。 嘉暦四年、御着帯後祭の日、あさがれゐの御き帳にのかゝりたりけるを御覧じてよませ給けるわが袖に 神はゆるさぬ あふひ 心のほかに かけて見る哉(大意:私の袖にあふひ葵草)をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『源氏物語』で、あふひ詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首ありましたね。私の場合逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様お許しならないのだとばかり思っていましたでも、思いもよらず今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね) —後京極院、『新拾遺和歌集』夏・203 だが、この年も禧子の御産うまくいかなかった。新たな皇子皇女生まれたという記録はない。 なお、2000年代初頭までは、軍記物語『太平記』物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏儀式偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐異形天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は#『太平記』参照

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