西園寺瑛子
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 03:53 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動西園寺 瑛子(さいおんじ えいこ/えいし、文永10年(1273年) - 建武3年/延元元年6月26日(1336年8月3日))は、亀山院の宮人。父は西園寺実兼、母は中院顕子(中院通成の娘)とする説[1]と後深草院二条(源雅忠の娘)とする説[2]がある。子に恒明親王がいる。女院号は昭訓門院(しょうくんもんいん)。
生涯
正安3年(1301年)1月に29歳で亀山院の仙洞御所に入ると、3月に従三位に叙されて、同19日に院号宣下を受けて女院となる。嘉元元年(1303年)に恒明親王を生む。嘉元3年(1305年)9月に亀山院の崩御に伴って出家して、法名を真性覚と称した。
亀山院は生前に恒明を将来の天皇に就ける意向を示し、瑛子も兄である西園寺公衡と共にそのための工作を行ったが、後宇多天皇の反対によって挫折した。
なお、彼女に仕えていた春日局(二条為世の娘)は公衡の嫡男である実衡の室となって公宗を生んでいる。
脚注
参考文献
- 芳賀登 他編『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993年) ISBN 978-4-8205-7128-5 P546.
- 志村有弘 編『天皇皇族歴史伝説大事典』(勉誠出版、2008年) ISBN 978-4-585-06063-5 (児玉喜恵子「亀山天皇」) P582-583.
- 秋山喜代子「昭訓門院」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P836.
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