珣子内親王
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珣子内親王(しゅんしないしんのう/たまこないしんのう[注釈 1])は、後醍醐天皇の皇后(中宮)。後伏見天皇の第一皇女。母は広義門院(西園寺寧子)。北朝からの女院号は新室町院(しんむろまちいん)。
注釈
- ^ 「珣」について、白川静『字通』および小学館『新選漢和辞典』によれば字音は「シュン」[1][2]、『字鏡集』(寛元3年(1245年)以前)によれば字訓は「タマノルヰ」[1]。一方、何に拠ったか明らかではないが、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(2015年版)は、音読みを「じゅんし」としている[3]。
- ^ 三浦論文は珣子 の生日を2月22日としている[5]が理由不明。
- ^ 後醍醐と対立した北朝で書かれた軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇が建武の新政で悪政を行ったので不満が噴出した、と描かれる。しかし、2010年代時点での研究では、悪政説は否定的見解がきわめて強い(後醍醐天皇#評価(研究史))。
- ^ 『武家年代記』下・裏書は、珣子内親王の立后が行われたこの日、京で「空騒動」(流言飛語による騒動)が起きたとしており、『続史愚抄』もその記述を引き継ぐ[13]。しかし、これが珣子との婚姻に関係があるのかは不明[14]。『大日本史料』編纂者の推測によれば、婚姻とは直接関係なく、足利尊氏と護良親王(後醍醐天皇第三皇子)の対立によるものではないか、という[14]。一方、熱田公は、立后と何らかの関係があるのではないか、としている(安田元久編『鎌倉・室町人名辞典』(1985年)[15]。三浦龍昭は、いずれとも判断が付かない、している[14]。
- ^ 三浦論文の原文は「七ヶ月目の着帯の儀」としているが、普通、着帯の儀は妊娠5か月目に行われ[27]、珣子の出産も翌年3月であるため、誤植と考えて訂正。
- ^ 『群書解題』によれば、「御産御祈目録」は、鎌倉時代に、第119代天台座主である竹内僧正慈厳と関わりを持つ、延暦寺の僧の誰かによって記されたものではないか、という[26]。異本が幾つかあるが、三浦論文で使用されたのは、『続群書類従』・『門葉記』に収録された版[26]。
- ^ 現存する版の『太平記』では、禧子への御産祈祷は幕府呪詛の偽装だったと描かれた。しかし、2010年代後半時点で、これは虚構であることがほぼ確定している。詳細は西園寺禧子#『太平記』。
- ^ 『后宮略伝』は崩御を5月13日とする[8]。
- ^ 伝・天武天皇「をとめごが をとめさびすも からたまを たもとにまきて をとめさびすも」[55]。珣子を本物の天つ乙女(天女)に喩えると共に、天つ乙女に模した「五節舞姫」に選ばれた女性は、平安時代には天皇の最愛の妻になることもあったので(清和天皇女御の藤原高子など)、両方の意を含んでいる。
- ^ 『新葉和歌集』では、第2句が「思出(おもひいづ)や」(思い出すこともあるのだろうか)となっている[56]。
- ^ 春日祭とは、大和国春日大社で旧暦2月および11月の上申日(その月初めの申の日)に行われる祭儀[58]。京都から斎女やの朝廷の祭使が派遣された他、藤原氏や東宮(皇太子)・中宮も使いを出して、幣を奉献した[58]。春日祭当日、藤原氏の者は、春日大社の「藤の鳥居」をくぐって本殿に進んだ[58]。なお、この後醍醐の歌の「花」は、春日祭の季節的に、藤の花ではなく、おそらく梅の花と考えられる[58]。
出典
- ^ a b 白川静『字通』「珣」
- ^ 小学館『新選漢和辞典』第八版(2011年)のWeb版(2018年)「珣」
- ^ "新室町院". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2020年7月11日閲覧。
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[続きの解説]
「珣子内親王」の続きの解説一覧
- 1 珣子内親王とは
- 2 珣子内親王の概要
- 3 生涯
- 4 後醍醐から珣子への歌
- 5 脚注
固有名詞の分類
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