中宮冊立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 14:56 UTC 版)
やがて、持明院統と対立する大覚寺統の後醍醐天皇は、元弘の乱(1331年 - 1333年)で鎌倉幕府と北条得宗家に勝利し、元弘3年(1333年)6月5日に建武の新政を開始した。後醍醐は、新政開始の翌々日である6月7日から、持明院統の所領安堵や花園上皇(珣子の叔父)が崇敬する大徳寺への優遇政策などを通じて、長年の政敵である持明院統との和解・融合を図った(後醍醐天皇#禅律国家構想)。さらに、優れた内政能力を持つ後醍醐天皇は現実的な政策を行い、新政の機構を着実に整えていった。 しかし、新政が始まった矢先の同年10月12日には、20年以上連れ添った最愛の正妃である皇太后西園寺禧子が崩御して、後醍醐は精神的に痛恨の打撃を食らい、臨済禅の高僧夢窓疎石の心理相談を受けた(『夢窓国師年譜』)。 空いた中宮(正妃)の位には、同年12月7日(1334年1月13日)、珣子内親王が入った(『女院小伝』等)。中宮冊立と立后の節会が同日に行われた。後醍醐は数え46歳、珣子は数え23歳だった。『公卿補任』によれば、珣子の中宮大夫には従兄である西園寺公宗が、中宮権大夫には親族の今出川実尹が就いた。また、このとき、「宮の女房」(中宮に仕える高級女性使用人)の要職である中宮御匣殿として入ったと見られる者に新室町院御匣という歌人がおり、『風雅和歌集』に2首が入集している(秋歌下・675、恋歌二・1112)。 二人の結婚は、21世紀初頭まで、日本史研究上では存在自体がほとんど注目されてこなかった。しかし、2012年、日本史研究者の三浦龍昭は、この婚姻は建武政権の存続に対して重大な意味を持つ、大掛かりな政略結婚だったのではないか、と指摘した。第一の理由として、この立后の3日後、後醍醐は持明院統の光厳(珣子の同母弟)を「皇太子」と記し(元弘の乱の間は天皇だったが、後醍醐が乱の発生直前の状況に皇位・官位を巻き戻したため)、崇敬のために「太上天皇」の尊号を奉るとしたことが挙げられる。第二の理由は、同月中に、後醍醐と前の正妃の禧子との愛娘である懽子内親王が光厳上皇に密かに嫁いだことである(『女院小伝』『続史愚抄』)。このようにして見ると、三つの出来事はまとまった一つの大きな流れと見られ、政権を安定させるために、持明院統への懐柔政策を集中して行ったのではないか、という。 三浦によれば、この後醍醐天皇の婚姻政策は、父の後宇多天皇のものを見習ったものではないか、という。後宇多は在位中の弘安8年(1285年)に、持明院統の後深草天皇の皇女である姈子内親王(のちの遊義門院)を皇后として例外的な立后を行っているが、伴瀬明美や三好千春によって、これは持明院統への融和政策だった可能性が指摘されている。なお、『増鏡』「さしぐし」によれば、後宇多は後年、姈子への想いが積もるあまり、持明院統の館から盗み出して手元に置き、最愛の妃として溺愛したという。しかし、三好によれば、後宇多は姈子を皇后に立てた時点ではその顔も全く知らず、純粋に政治的なものだったという。 1か月後の元弘4年(1334年)1月23日には、後醍醐と阿野廉子との皇子である恒良親王が立太子された。三浦によれば、側室である廉子との子の恒良をそのまま皇太子にすると、持明院統からの反発が予想されるので、珣子と婚姻を結び、将来、持明院統の血を引く皇子が天皇になれる可能性をちらつかせることで、持明院統の反感低下を狙ったのではないか、という。その一方で、2017年、亀田俊和は前節までの三浦説を認めつつも、珣子との婚姻に、三浦よりも積極的な意味を見出している。つまり、母の家格がそれほど高くはない恒良の側が中継ぎの皇太子であって、将来、正妃である珣子との間に生まれるはずの皇子の方を正嫡の天皇とする予定だったのではないか、という。
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